冨田甚平(読み)とみたじんぺい

改訂新版 世界大百科事典 「冨田甚平」の意味・わかりやすい解説

冨田甚平 (とみたじんぺい)
生没年:1848-1927(嘉永1-昭和2)

明治・大正期の近代的農業排水技術の完成者。〈実学の鬼〉といわれる。肥後国(熊本県)細川藩郷士地主長男。1875年ごろから父の反対を押して地下水の排水法を研究し,84年ごろに有名な〈留井戸(とめいど)〉を発明郷里菊池郡は肥後農業の先進地で,江戸時代から暗きょ排水や肥後犂(すき)などの改良が進んでいたが,彼は実地の観察と努力を重ね,湿田を改良する〈冨田式暗きょ排水法〉を完成した。地域の農事指導に努め,また多くの公職を引き受け,1890年から1913年までは鹿児島・山口・秋田県の技師などとして土地改良や農業教育を指導し,関係した暗きょ排水は全国で1万町に及んだ。朝鮮の全羅南道にいた長男の干拓事業を14年から援助し,同地で没した。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「冨田甚平」の解説

冨田甚平

没年:昭和2.3.3(1927)
生年:嘉永1.11.30(1848.12.25)
明治大正期の農事改良家。肥後国(熊本県)菊池郡水島村の郷士冨田茂四郎の長男。生家は田畑5町歩(約5ha)の地主。少年のころ同郡辺田村の筑紫宗甫につき漢学を学び,のち父のもとで農業に従事。明治11(1878)年劣等湿田の乾田化を図り暗渠排水の実験にとり組み,研究を重ね冨田式暗渠排水法を確立した。23年鹿児島県農商課に雇われ,加納久宜知事の知遇を得,同県の耕地整理事業に尽くした。33年山口県に招かれ農事巡回教師となり,11年間暗渠排水や耕地整理の普及に当たった。その後43年から大正2(1913)年までは秋田県に転じ,ここでも耕地整理を担当した。簡易な暗渠排水法を開発し,稲の生産向上に尽くした功績は大きい。晩年は朝鮮で干拓を試みる長男両助のもとに行き同地で没した。<参考文献>須々田黎吉「『冨田式暗渠排水法』解題」(『明治農書全集』11巻),江上利雄「簡易暗渠排水技術の確立―冨田甚平の業績」(『日本農業発達史』4巻)

(田口勝一郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

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