出島(読み)デジマ

デジタル大辞泉 「出島」の意味・読み・例文・類語

でじま【出島】

長崎市の地名。寛永11年(1634)江戸幕府が長崎商人に命じて長崎港内に築かせた4000坪ほどの扇形の小島。初めポルトガル人を住まわせ、のち平戸オランダ商館を移転させた。鎖国時代唯一の貿易地。明治初年に埋め立てられ、現在は市街地の一部。

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精選版 日本国語大辞典 「出島」の意味・読み・例文・類語

で‐じま【出島】

[1] 長崎市中央部の地名。寛永一一年(一六三四)江戸幕府がポルトガル人を居住させるため長崎の商人二五名に造らせた扇形の島。同一八年以後幕末までオランダ人が居住。北方の出島橋で市街に連絡。甲比丹(かぴたん)部屋・紅毛人部屋・倉庫・通詞会所など六五棟あり、奉行所役人・入札商人・遊女・人夫のみ出入を許可された。明治三二~三七年(一八九九‐一九〇四)付近が埋め立てられて陸続きとなる。築島。
[2] ((一)から) 江戸時代、オランダ人の異称。
浮世草子好色敗毒散(1703)一「唐人出嶋(デジマ)の嫌ひなく、運にまかせて強気を出して」

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日本歴史地名大系 「出島」の解説

出島
いずしま

[現在地名]女川町出島

女川湾北方に位置する離島。村名は内陸から前方に離れ出た島だからという(女川町誌)正保郷帳に田三三六文・畑五二五文とある。牡鹿郡遠島女川組大肝入扱いのうち。藩政期を通じ蔵入地で、「牡鹿郡万御改書上」によれば、元禄年間(一六八八―一七〇四)の田五四五文・畑五〇八文で、茶畑九七文・海上高一貫四四八文、人頭一〇人、男九二・女六八、出島在家東西四九間・南北三〇間があった。その後享保八年(一七二三)出島百姓長兵衛は組頭肝入など五人の連名で、寺間てらまの開発を願出ている(須田家文書「牡鹿郡誌」所収)。これによれば、寺間には開墾可能地が三町ほどあり、百姓二〇軒ほどが居住できるが、出島の百姓だけでは新百姓に不足なので、他浜の者でも入植可能としている。この願いは同一一年「出島に新屋敷取立申度由願之趣」と許可された。寺間は端郷として扱われ、屋敷名も出島屋敷のうちであった。寺間の開発にあたっては、出島のうちから分家したものおよび島外から移住し、出島の有力な家を草鞋ぬぎ本家とし、その後援により家を持ったものがあったという。

出島
いずしま

女川湾口北側、女川・雄勝おがつ両湾を分界する位置にある離島で、東西一・五キロ、南北三・三キロの海食台地で、面積二・六四平方キロである。島の北端に出島、南端に寺間てらまの集落がある。島内には、縄文早・前・中・後期の遺物を出土する貝塚や祭祀遺跡、鎌倉から南北朝時代にかけての正応(一二八八―九三)・元亨(一三二一―二四)・嘉暦(一三二六―二九)・元徳(一三二九―三一)・元弘(一三三一―三四)の古碑が発見されている。

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百科事典マイペディア 「出島」の意味・わかりやすい解説

出島【でじま】

江戸時代1635年に長崎港内に埋め立てた扇形の小島。面積3969坪。当初ポルトガル商人をおいたが,同国船渡航禁止ののち,1641年平戸オランダ商館をここに移し,オランダ人の居住地とし,ほかに日本人の諸役人・通詞の家,倉庫などが立ち並んでいた。鎖国中唯一の西欧との貿易地。当時は小橋で長崎と連絡,現在は埋め立てられ市内に編入。
→関連項目カピタン(日本史)川原慶賀鎖国シーボルト高島秋帆通事/通詞ティチングドゥーフ鳴滝塾松浦鎮信丸山モーニケ吉雄耕牛

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改訂新版 世界大百科事典 「出島」の意味・わかりやすい解説

出島 (でじま)

長崎市出島町にあったオランダ人居留地。もとはポルトガル人を日本人から隔離するため,1635年(寛永12)長崎湾内に築造された島である。41年ポルトガル人の来航が禁止されると,同年オランダ商館は出島に移転を命ぜられ,1856年(安政3)までここに置かれた。オランダ人が居住した時代がはるかに長いため,ふつう出島とは,オランダ商館所在地と考えられている。商館員の居留地は出島にのみ限定され,許可がないかぎり,他の地域に立ち入ることを許されなかった。出島は面積3969坪,扇形の人工の島で,町との間には橋があった。中央を貫通する道路と,これと交差する道路により島は4区画に分かれ,ここにオランダ人居宅,日本人諸役人・通詞(つうじ)の家,各種倉庫など,65棟が建っていた。出島に滞在するオランダ人は9人から12人で,彼らみずから〈国立の牢獄〉と呼ぶほど,不自由な生活を送っていた。出島でオランダ人と直接交渉に当たったのは出島乙名(おとな)で,島内に居住した。出島への出入りは一般には禁止されていたが,長崎奉行所役人,長崎町年寄オランダ通詞,出島乙名,組頭,日行使,五箇所宿老,出島町人は,公用の場合にかぎり出入りを許された。商人や町人は,その居住町の乙名に願い出,この乙名から出島乙名に人数・用件を届け出て,はじめて出入りが許可された。幕末の1855年オランダ人が長崎市内を自由に散歩することを許され,翌年出島開放令が出され,出島乙名,番人などは出島から引き揚げて,出入りはまったく自由になった。現在は堀が埋め立てられ,長崎の町と地続きになっている。
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出島(茨城) (でじま)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「出島」の意味・わかりやすい解説

出島
でじま

長崎県南部,長崎市の中心市街地を流れる中島川河口にある地区。寛永 10 (1633) 年の鎖国令により,ポルトガル人の隔離を目的として,河口の沿岸に扇形の埋立地「出島」が造成された。完成は寛永 13 (1636) 年。面積約1万 3000m2で,市街地との連絡は1本の橋のみであった。島原の乱後,ポルトガル人が追放され,平戸のオランダ商館がここに移されて,西欧の文物を取り入れる窓として幕末まで存続した。明治以降は周囲が埋め立てられて,往時の面影をほとんど失い,現在の出島地区には史跡の一部が残されているほか,新聞社,病院,倉庫などが雑居。国の史跡の出島和蘭商館跡や聖公会の教会を復元した出島資料館などがある。その東端の新しい出島岸壁は,外国および県内離島航路の発着場となっている。

出島
でじま

茨城県中南部,かすみがうら市南東部の旧村域。地名は霞ヶ浦の北西岸で半島のように突き出ていることに由来。 1955年美並村,下大津村牛渡村佐賀村,安飾村,志士庫村が合体して出島村が成立。 1997年町制がしかれ,霞ヶ浦町と改称した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「出島」の解説

出島
でじま

江戸時代,オランダ人が居住した長崎の人工築島。当初はポルトガル人の隔離を目的として,1636年(寛永13)25人の豪商の出資により築造,ポルトガル人を収容した。39年ポルトガル人が追放されたため,41年平戸のオランダ商館が移された。内部にはカピタン部屋・通詞部屋・乙名(おとな)部屋・紅毛人部屋のほか土蔵・菜園・家畜小屋などがあった。出島のオランダ人は自由な外出を禁止され,日本人の出入りも町年寄・通詞のほかは出島乙名・組頭,金場役,筆者,料理人,コンプラ仲間(食料・諸色売込人)などの出島役人や遊女に限られた。商館跡は国史跡。なお同地では長崎市による出島復元事業が1996年(平成8)より開始され,順次公開されている。

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旺文社日本史事典 三訂版 「出島」の解説

出島
でじま

江戸前期,ポルトガル商人のため幕府が長崎港内に築いた埋立地
1634〜36年に築造。ポルトガル商人を移したが,その退去後,'41年平戸のオランダ商館を移した。扇形で,面積約1万4000㎡。石橋で長崎市街と結び,見張番所を置き出入りを厳重に監視した。鎖国下,世界への窓の役割を果たした。

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デジタル大辞泉プラス 「出島」の解説

出島

宮城県牡鹿郡女川町、牡鹿諸島に属する島。「いずしま」と読む。面積約2.68平方キロメートル。本土からの距離は最も近いところで約300メートル。カキやホタテ、ホヤなどの養殖業が盛んだったが、2011年の東日本大震災で大きな被害を受け、復興に向けた努力が続けられている。

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