出水市(読み)イズミシ

デジタル大辞泉 「出水市」の意味・読み・例文・類語

いずみ‐し〔いづみ‐〕【出水市】

出水

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日本歴史地名大系 「出水市」の解説

出水市
いずみし

面積:二二八・五六平方キロ(境界未定)

県の北西部に位置し、北は熊本県水俣市、東は大口市、南は薩摩郡宮之城みやのじよう町・鶴田つるだ町、西は出水郡高尾野たかおの町に接し、北西は八代海に面する。高尾野町を挟み西方には飛地のしよう地区があり、同地区は北に八代海を望み、西は出水郡野田のだ町・高尾野町に接している。北東部には国見くにみ山地(肥薩山地)、南部には出水山地の山々が連なり、北の県境に矢筈やはず(六八七・三メートル)、南に北薩第一の高峰紫尾しび(一〇六六・八メートル)がそびえる。これら山地を水源として市の中央をほぼ西方に流れるこめ川は、鍋野なべの川・平良たいら川などの諸流を合せて北西に流れを変え、八代海に注ぐ。市域の地形は山地、その山麓部の丘陵性台地、さらに洪積台地、河川の沖積地と変化に富み、海岸部には干拓地が広がる。平野部は県有数の出水平野の一部で、標高二〇〇メートル以下の地が市域の約四〇パーセントを占める。北部県境では海岸部を通っていたJR鹿児島本線は、いったん南下し、市の中心地で西に向きを変え、高尾野町に抜ける。また国道三号は海岸に沿っておおむね北西―南東方向に走り、ほかに近隣地区へ通じる道路が市中心地からほぼ放射線状に発達している。市名は近世の出水郷を継承する。

〔原始〕

上場うわば遺跡は昭和四〇年(一九六五)に発見され、翌年南九州では初めて発掘調査された旧石器時代の遺跡である。発掘調査によって刃器文化から細石器文化にかけての五つの文化層をもつ遺跡であることが判明し、さらにわが国で初めての旧石器時代の住居跡も検出された。同遺跡の所在する高原(上場高原)一帯は旧石器時代の遺跡の宝庫で、狸山たぬきやま遺跡・郷田ごうだ遺跡や旧石器時代の狩猟用落し穴が発見された大久保おおくぼ遺跡などがある。縄文時代の遺跡は上場高原一帯の各遺跡のほか、出水貝塚牟田尻むたじり遺跡・荘貝塚・沖田岩戸おきたいわと遺跡などがある。出水貝塚は押型文土器等の早期の遺跡と中期から後期の貝塚からなる複合遺跡で、牟田尻遺跡は早期と弥生時代の複合遺跡である。荘貝塚は前期の貝塚で多量の土器や石器が出土した。とくに前期の轟式土器はかつて標式土器として荘式土器とよばれていた(現在は轟式土器の範疇に含まれる)。沖田岩戸遺跡は晩期の低湿地の遺跡で多量の土器・石器が出土している。

出水市
いずみし

2006年3月13日:出水市と出水郡高尾野町・野田町合併
【高尾野町】鹿児島県:出水郡
【野田町】鹿児島県:出水郡
【出水市】鹿児島県

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「出水市」の意味・わかりやすい解説

出水〔市〕
いずみ

鹿児島県北西部,八代海に臨む出水平野にある市。熊本県境に位置する。 1954年出水町,米ノ津町の2町が合体して市制。同 1954年大川内村を編入。 2006年野田町,高尾野町と合体。中心市街地の出水は,古くは泉と称し,中世は和泉氏の支配下にあったが,慶長4 (1599) 年以後薩摩藩の領地となり,出水郷と称した。地頭を派遣し,士族を住まわせて集落を形成,野間の関所を置いて藩北辺の警備にあたらせた。現在も馬場や士族屋敷など当時の名残りがある。鹿児島県北西部の中心都市で,工業用アルコール,電機,化学の工場などがある。出水平野とその海岸に続く干拓地では米,小麦,サツマイモ,菜種,葉タバコ,果実などを産し,イワシ,アジ,サバ,クルマエビなどの漁獲もある。ツルの渡来地として有名で,国の特別天然記念物に指定。湯川内温泉 (ゆがわちおんせん) ,白木川内温泉 (しらきがわちおんせん) などの温泉がある。九州新幹線,肥薩おれんじ鉄道線,国道3号線,328号線,447号線,504号線が通る。面積 329.98km2人口 5万1994(2020)。

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