出石城下(読み)いずしじようか

日本歴史地名大系 「出石城下」の解説

出石城下
いずしじようか

しろ(有子山)の北西麓、出石川右岸に形成された出石城の城下町山名祐豊は天正二年(一五七四)城山山頂に有子山ありこやま城を築き、此隅山このすみやま城に代わる新城とした。この折に当城下の原形となった有子山城下の町割が行われたと思われる。慶長九年(一六〇四)有子山城主(出石藩主)となった小出吉英は、同城山裾谷部の居館を改修して出石城を築き、併せて城下町を整備した。この頃の整備によって城下はほぼ完成したものと考えられる。以後歴代出石藩(小出氏のあと松平氏・仙石氏と継承)の城下として繁栄し、出石郡はもとより、但馬一国の政治・経済・文化の中枢を担った。

ところで谷山たにやま川は現在市街南部を西に流れ、南西部で流れを北に変えている。しかしこの北流部分は出石川のかつての流路で、谷山川は古くは城下を囲繞するように曲流していた。江戸時代の城下総構は南辺を三の丸の内堀、西辺を出石川、北辺を谷山川および外堀、東辺を谷山川に囲まれ、この内側が内町(三の丸の武家町内町とは別)、外側が外町であった。なお現在市街西部を北流する出石川は旧ほり川の流路を利用し付替えたもので、昭和一二年(一九三七)に竣工した円山まるやま川改修工事の一環として行われた。前出谷山川の流路変更もこのときのことである。

〔有子山城時代〕

山名氏が有子山城主であった戦国末期の城下町としての実態は不明である。しかし宗鏡すきよう寺や願成がんじよう寺は此隅山城下から移転したとの伝承をもち、また八木やぎ宵田よいだ田結庄たいのしよう町名はいずれも山名氏の上級家臣である八木氏・垣屋氏(宵田城主)田結庄氏の屋敷が城下に存在していたことを想定させ、山名祐豊が有子山城下に家臣団を集住させる政策を採用した可能性をうかがわせる。織豊期は城下町を囲込むように蛇行させた谷山川と北流する出石川とで構成される外堀、谷山川を利用した内堀からなる総構が城下町であったと考えられる。なお江戸時代の内町(総構内)の中心部は大手筋に直交する東西方向の道を主要な街路とする横町型の町割である。ただしこれは大手筋あるいはこれに並行する南北方向の道を主要な街路とする縦町型の町割を江戸初期に大改修して成立したものとみられ、織豊期の町割は改修以前の縦町型であったと考えられる。

〔江戸期の町割〕

内堀と、出石川・谷山川で構成される外堀に囲繞されたなかに武家町伊木いぎ町、町人町材木ざいもく町、魚屋うおや(一部は谷山川の外)・八木町・ほん町・鋳物師いもじ町・宵田町田結庄町などの内町を配し、外堀(谷山川・出石川)の外にてら町・宗鏡寺すきようじ町・鉄砲てつぽう町・川原かわら町・博労ばくろう町・小御料庄こごろしよう町・上馬場かみばば町・下馬場町などの外町を配した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の出石城下の言及

【出石[町]】より

…但馬一宮の出石神社がある。【松原 宏】
[出石城下]
 但馬国の城下町。織田信長の配下羽柴秀吉の但馬攻撃をうけて居城此隅(このすみ)山城を失った山名祐豊は1574年(天正2)出石に移って有子山に築城した。…

※「出石城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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