分子標的治療薬(読み)ブンシヒョウテキチリョウヤク(英語表記)Molecular targeted drug

デジタル大辞泉 「分子標的治療薬」の意味・読み・例文・類語

ぶんしひょうてき‐ちりょうやく〔ブンシヘウテキチレウヤク〕【分子標的治療薬】

がん細胞などの増殖に必要なたんぱく質などの分子を標的として、癌細胞のみを破壊する薬剤の総称。分子生物学によって解明された遺伝子情報を活用して開発された。従来の抗癌剤が、癌細胞とともに正常な細胞も損傷させるのに対し、分子標的治療薬は癌細胞にのみ作用するため、抗癌剤にくらべて副作用が著しく少ないとされる。
[補説]グリベック(白血病治療薬)・ハーセプチン(乳癌治療薬)・イレッサ(肺癌治療薬)など、日本でもさまざまな分子標的治療薬が使用されるようになってきたが、アメリカなど海外で次々と承認されている新薬の多くが、日本ではすぐに使えない状況にあり、治験制度の見直しを求める声が高まっている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「分子標的治療薬」の意味・わかりやすい解説

分子標的治療薬
ぶんしひょうてきちりょうやく
Molecular targeted drug

がん細胞に発現する分子に特異的に作用することでがんの増殖を抑制するがん治療薬。分子標的薬ともよばれる。

 従来の抗がん剤(殺細胞性の抗がん剤)は、細胞の増殖に伴うDNAやタンパクの合成や代謝、細胞分裂機構などを阻害することによってがん細胞を死滅させるものであり、そのため、生理的に分裂を繰り返している造血細胞や毛母細胞、粘膜上皮細胞をはじめとする正常な細胞にもダメージを与え、骨髄抑制や脱毛、吐き気、嘔吐(おうと)などの副作用を起こしやすいという難点があった。これに対し分子標的治療薬はがん細胞に特異的に発現する特定の分子にねらいを定めているため、正常細胞への影響としての副作用は比較的軽微であることが多い。しかし一方で、分子標的治療薬に特徴的な副作用(有害事象)も報告されており、十分な経験と知識を有するがん薬物療法の専門医をはじめとするがん医療従事者およびがん医療提供体制の整った医療施設で使用されることが推奨される。

 従来の抗がん剤では十分な治療効果が得られなかったがんに適応をもつ分子標的治療薬も登場してきており、すでに多くのがんで標準治療として分子標的治療薬による治療が行われている。

[渡邊清高 2019年3月20日]

作用機序

がんの発生や進展には、発がん・増殖・浸潤・転移など、がん特有の性質に関与する分子機構が存在する。これらを特徴づける代表的な分子として、細胞表面抗原、増殖因子・受容体、細胞内シグナル伝達系、血管新生因子、DNA複製・修復関連因子、アポトーシス因子、細胞周期関連タンパクなどがあげられる。

 これらの分子にねらいを定めて攻撃するのが分子標的治療薬である。たとえば血管新生因子の発現によって血管を増殖しながら発育するがん細胞に対して、その血管新生因子を阻害する分子標的治療薬を用いれば、血管の増生を阻害することでがん細胞の増殖を抑制することができる。

 分子標的治療薬は標的となるがん細胞がもつ分子が関与する特定の細胞機構にのみ効果を発揮する。このため、従来の抗がん剤(殺細胞性の抗がん剤)に比べ正常な細胞に与えるダメージが少なく、従来薬にみられるような骨髄機能の抑制や脱毛、口腔(こうくう)粘膜炎などの副作用が少ない。また、がんの種類や、特異的な遺伝子変異や分子が発現していることで分子標的治療薬が効果を示すと期待される症例においては、より高い治療効果が発揮される。これらのことは、がんの特性に応じた治療選択につながり、個別化医療プレシジョンメディシン)の広がりが期待される(後述)。

[渡邊清高 2019年3月20日]

開発の背景と薬剤の種類

分子標的治療薬は、1980年代以降の分子生物学の飛躍的な発展に伴って進んだがん細胞の分子機構の研究を通して、標的となる分子を選択して人工的に薬剤を開発する「創薬」によって生み出されている。この点において、植物などの天然物質や合成化合物のなかから有効成分がみいだされてきた殺細胞性の抗がん剤とは開発方法から異なる。

 分子標的治療薬の種類には、大きく抗体医薬品として「モノクローナル抗体monoclonal antibody」と低分子医薬品として「低分子阻害薬small molecule inhibitor」とよばれる2種類がある。前者は免疫グロブリン(抗体)であり、培養細胞などを用いた遺伝子組換え技術によって、人工的に抗体を量産して製剤としたものである。薬剤名の語尾が「~マブ mab」で表される。分子量が大きく、細胞表面や細胞外の標的分子に結合して薬効を現す。注射薬として単剤または従来の抗がん剤との併用で用いられている。

 また、近年急速に開発が進んでいる分子標的治療薬として、身体に備わっている免疫機能に働きかけて薬効を現す「免疫チェックポイント阻害薬」とよばれる薬剤も、モノクローナル抗体(抗体医薬)の一つとして分類される。

 後者の低分子阻害薬は、細胞内のシグナル伝達経路を担う活性分子の機能を阻害する薬剤で、分子量が小さく、細胞表面の抗原や受容体タンパクのみでなく細胞内の分子も標的とすることができるため、より多くの薬剤が開発されている。薬剤名の語尾は、キナーゼ阻害薬では「~ニブ nib」、プロテアソーム阻害薬では「~ミブ mib」、mTOR(エムトール)阻害薬では「~リムス limus」などとされている。内服薬または注射薬が、単剤あるいは他の薬剤との併用で用いられている。

 日本では、2001年(平成13)に初めてCD20(B細胞表面抗原)に対するモノクローナル抗体である「リツキシマブ」がB細胞リンパ腫(しゅ)の治療薬として承認された。以降、多くの分子標的治療薬が次々に開発・承認されており、分子標的治療薬が第一選択薬となっているがんも多い。

 また、分子標的治療薬によって、種々のがんで患者の生存率が上昇している。たとえば乳がんでは、20%程度の割合でがん細胞にHER2(ハーツー)とよばれるタンパク質が発現しており、このタイプの乳がんは、悪性度が高く予後不良であることが知られていた。しかし、HER2を標的とする分子標的治療薬「トラスツズマブ」により、HER2陽性乳がん患者の予後は大きく改善されている。また、副作用の多い殺細胞性の抗がん剤治療や骨髄移植を余儀なくされてきた慢性骨髄性白血病では、白血病細胞を増やすBcr-Ablタンパクを攻撃する分子標的治療薬「イマチニブ」によって、高い寛解率を得られるようになっている。

 このように、分子標的治療薬は、これまで治療が困難であったがんを含めた患者の生命予後の改善に大きく貢献してきている。

 分子標的治療薬は開発著しく、その数も増加の一途ではあるが、それぞれの薬剤が標的とする分子が発現していないがんには原則無効であり、すべての患者に適しているわけではない点には注意が必要である。いずれの薬剤も、遺伝学的検査や免疫組織学的な検査などにより適応を慎重にみきわめながら、全身状態や個別性に十分配慮したうえで使用が検討されるものである。

 以下に、国内で承認されている代表的な分子標的治療薬を示す。

・リツキシマブ(商品名:リツキサン):CD20を標的分子とし、B細胞性非ホジキンリンパ腫に用いられる。

・トラスツズマブ(商品名:ハーセプチン):HER2を標的分子とし、乳がんや胃がんに用いられる。

ベバシズマブ(商品名:アバスチン):血管内皮細胞増殖因子(VEGF)を標的分子とし、大腸がんや肺がん、乳がんなどに用いられる。

・イマチニブ(商品名:グリベック):Bcr-Ablを標的分子とし、慢性骨髄性白血病やGIST(消化管間質腫瘍(しゅよう))などに用いられる。

・セツキシマブ(商品名:アービタックス):上皮成長因子受容体(EGFR)を標的分子とし、大腸がんや頭頸(とうけい)部がんに用いられる。

・ゲフィチニブ(商品名:イレッサ):EGFRを標的分子とし、非小細胞肺がんに用いられる。

・クリゾチニブ(商品名:ザーコリ):未分化リンパ腫キナーゼ(ALK)を標的分子とし、非小細胞肺がんに用いられる。

・テムシロリムス(商品名:トーリセル):mTORを標的分子とし、腎(じん)細胞がんに用いられる。

[渡邊清高 2019年3月20日]

副作用(有害事象)

分子標的治療薬は、従来の抗がん剤にみられるような副作用が少ないのが特徴の一つである。しかし、分子標的治療薬が攻撃標的とする分子は、がん細胞以外にも発現していることがあり、頻度は低いもののときに特徴的な副作用(有害事象)が現れることがあり、なかには重篤なものも存在する。

 モノクローナル抗体の有害事象として、インフュージョンリアクション(急性輸注反応)の存在が知られている。インフュージョンリアクションは、薬剤投与中~投与後24時間以内に現れる症状の総称で、発熱や悪寒、吐き気、頭痛、皮膚の掻痒(そうよう)感(かゆみ)、発疹(ほっしん)、咳(せき)など比較的軽微な症状のほか、重度なものとしてはアナフィラキシー様症状(急性の全身性アレルギー反応)、気管支痙攣(けいれん)、血圧低下、急性呼吸促迫症候群など、生命に危険が生じる可能性のある症状が現れることがある。

 また、各薬剤に特有の有害事象として、たとえば、血管新生因子を阻害するタイプの分子標的治療薬では、がん細胞以外の血管新生も阻害することで血圧が上昇したり、粘膜や血管の修復が正常に行えず、消化管潰瘍や出血などを引き起こすことなどが報告されている。また、低分子医薬品でも、重篤な肺炎(間質性肺炎)や皮膚障害、骨髄抑制など、従来の抗がん剤とは異なる有害事象がみられることが知られている。

 インフュージョンリアクションやその他の有害事象の予防や軽減のために、投与前に予防薬を用いたり、薬の投与速度を調整したり、起こったときの対処(支持療法)の体制を整え、かつその確立を目ざすなど、医療現場では日々さまざまなくふうや取組みがなされている。

[渡邊清高 2019年3月20日]

その他

以前から、個々の患者に適した治療を行い、少ない副作用で高い効果を期待する「個別化医療」の発展が望まれてきた。分子標的治療薬が標的とする特定の分子は、バイオマーカー(病気の存在や進行度、治療効果、予後などの指標となる血中・尿中のタンパク質などの物質)となりうるものが少なくない。たとえば、HER2は予後不良の乳がんのバイオマーカーとして知られていたが、HER2を特異的に攻撃するトラスツズマブを用いることで生存率は大幅に改善した。HER2は胃がんの2割程度の症例においても発現例がみられ、この場合にはトラスツズマブによる治療の適応となる。このように、分子標的治療薬はがんの個別化医療の実現を担いうる側面があり、検出されたバイオマーカーによっては異なる分子標的治療薬やほかの種類のがん治療薬を併用するケースもある。

 これまでに、すでに種々の分子標的治療薬が開発され、おもには外来でがんの治療を受けながら、その人らしい社会生活を営むことができるようにもなってきた。今後さらなる標的分子の発見と、それらに対する効果的な分子標的治療薬の開発が進むことで、より最適化された個別化医療の発展やQOL(クオリティ・オブ・ライフ)の維持向上、生命予後の改善などが期待されている。

[渡邊清高 2019年3月20日]

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