前橋(読み)まえばし

精選版 日本国語大辞典 「前橋」の意味・読み・例文・類語

まえばし まへばし【前橋】

群馬県南部の地名県庁所在地。古くは東山道の宿駅で厩橋(うまやばし)と呼ばれた。利根川両岸に発達。江戸時代に酒井氏一二万三〇〇〇石の城下町となり、現名に改称。のち松平氏一五万石の支配下に置かれ、繭・生糸集散地市場町として繁栄した。現在、食品・木工・電気機器・輸送機器などの工業が行なわれる。明治二五年(一八九二)市制。

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デジタル大辞泉 「前橋」の意味・読み・例文・類語

まえばし〔まへばし〕【前橋】

群馬県中南部の市。県庁所在地。もと厩橋うまやばしといい、酒井・松平氏の城下町。江戸から大正時代絹織物業で栄えた。平成16年(2004)に大胡おおご町・宮城村粕川村を、平成21年(2009)に富士見村を編入。人口34.0万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「前橋」の意味・わかりやすい解説

前橋[市] (まえばし)

群馬県中部の市で県庁所在地。2004年12月旧前橋市が大胡(おおご)町,粕川(かすかわ)村,宮城(みやぎ)村を,09年5月には富士見(ふじみ)村を編入して成立した。人口34万0291(2010)。

前橋市中部の旧町,旧勢多郡所属。人口1万6461(2000)。赤城山南麓を占め,旧前橋市の北東に接する。中心集落の大胡は中世に足利氏の支族大胡氏の城下町としておこり,江戸時代は日光裏街道の宿場町として栄えた。3・8の六斎市が開かれ,繭や生糸の取引でにぎわい,明治から大正にかけては馬市が立った。現在も赤城山南麓地域の商業・交通の要地である。畜産が農業の中心でシイタケの生産も行われる。町の南にある千貫沼は江戸時代につくられた溜池で,現在はコイの養殖が行われている。上毛電鉄線が通じる。

前橋市東端の旧村。旧勢多郡所属。人口1万1513(2000)。赤城山の南斜面にあり,旧前橋市の東に位置する。赤城山の火口湖小沼(この)を水源とする粕川の沿岸に水田,山麓に畑が広がる。1970年に群馬用水が完成するまでは,粕川と溜池に用水源を依存し,つねに用水不足にみまわれていた。小沼用水は厳重な水利慣行で知られる。近年は野菜,花卉などの施設園芸も行われる。山腹の中之沢は第2次世界大戦後の開拓地で,大規模なシクラメンのハウス団地がある。上毛電鉄線が通じる。

前橋市北端部の旧村。旧勢多郡所属。人口2万2320(2005)。赤城山の山頂部からそのすそ野の南西部にわたって位置し,南から東は旧前橋市に接する。古くから養蚕が盛んで,明治初期には栽培技術の普及などに努めた篤農家船津伝次平が出ている。1969年に群馬用水が完成してからはホウレンソウ,ダイコンなどの野菜栽培や畜産が増えている。また旧前橋市への通勤者も多い。赤城山山頂部一帯は県立公園に指定され,66年に山頂の大洞まで県営赤城有料道路が開通してから(95年無料開放),急速に観光地化した。中腹には県立畜産試験場や国立赤城青年の家(現,国立赤城青少年交流の家)がある。横室の大ガヤは天然記念物。
執筆者:

前橋市南西部の旧市。商工都市で県庁所在地。1892年市制。人口28万4155(2000)。関東地方で最も早くから上方文化の影響をうけたところといわれ,二子山古墳八幡山古墳など多くの古墳がある。市域西端の元総社(もとそうじや)地区は,古代に上野国府が置かれ,その西方には上野国分寺の跡がある。前橋は古代の東山道の宿駅で,利根川にかかる橋があったため,古くは厩橋(まやばし)と呼ばれた。文明年間(1469-87)に厩橋城ができ,集落の形が整った。近世には平岩氏,酒井氏,松平氏の城下で,酒井氏の元禄年間(1688-1704)に厩橋から前橋に改められた。松平氏が川越に移り廃城となったのち町は衰えたが,養蚕業の勃興とともに,繭や生糸の集散地となり,市も栄えた。1870年(明治3)にはスイス人ミュラーの指導で日本最初の機械製糸工場ができ,以後,明治・大正から第2次大戦前まで糸の町として発展した。戦後製糸業が衰え,代わって電気機器,輸送機器工業の進出がめざましく,利根川西岸などに造成された工業団地には近代的大工場が誘致され,食品や木工,家具などの工業も盛んである。

 前橋城の本丸跡には県庁があり,二の丸,三の丸跡は前橋公園となっている。中心市街は駅前のけやき並木通りから本町通りにかけてが金融街,その北の千代田町が中心商店街,西の大手町が県庁や市役所のある官庁街で,市街地の南部と南東部には大利根,広瀬の住宅団地がある。市域の北部から東部にかけては赤城山南麓の養蚕地帯であるが,1960年代からは住宅,工場,都市施設などが多く進出している。前橋駅が鉄道幹線からはずれたJR両毛線にあるため,高崎に比べて鉄道交通では恵まれなかったが,道路交通が発達し国道17号線,50号線が通じ,高崎との境には関越自動車道前橋インターチェンジも設置されている。さらに南部には北関東自動車道のインターチェンジがある。東京から100km圏にあり,隣接する高崎・伊勢崎両市とともに首都圏の北西部の中心として発展している。
執筆者:

上野国群馬郡の城下町。城は15世紀末ごろ長野氏の築城と伝え,戦国時代末期には上杉・後北条両氏の攻防の焦点であった。徳川家康の関東入国に際し,平岩親吉が入封(3.3万石),次いで酒井重忠に代わって以後酒井氏が9代約150年間在城した。この間,2代忠世,4代忠清はともに老中,大老となり,所領も15万石となった。城郭の整備や城下町の町割りもこの時代に進められた。

 城は利根川の断崖を背にして東の台上に大手門を開き,敷地約15万坪。本丸には三層の櫓(やぐら)が設けられ,各曲輪(くるわ)は土塁と濠で区分され,侍屋敷が集まっていた。町は越後,沼田から利根川東岸を通る江戸道に沿い,連雀町,本町など19町(のち23町)を数えた。戦国期末以来,木島助右衛門家が連雀頭として市商人を支配,本町には4・9,連雀町には2・7の六斎市が開かれ,繭や生糸の取引が盛んであった。町年寄は勝山・福野両家が勤めた。

 元禄期前後は藩主忠挙の領内総検地,町制の整備,藩校の創設などの施策もあって大いに繁栄したが,1699年の暴風雨被害以来,城郭の損傷に加えて財政の破綻が進み,1749年(寛延2)酒井氏は姫路へ移り,代わって姫路から松平氏が入封した。しかし城の危険が去らぬため67年(明和4)武蔵川越城に移り,69年城は破却された。以後約100年間は分領となり,陣屋が置かれた。このため町は衰え,また周辺の農村も83年(天明3)の浅間山の大噴火前後から荒廃した。91年(寛政3)の調べでは町数23町,町屋家数1077軒,人口4288人。盛んなころは4700軒もあった(帰城嘆願書)というから武士人口を加えると1万人をこえていたと思われる。1854年(安政1)の開港後,領内特産の生糸が活況を呈し,生糸商人が続出した。これをうけて幕末の藩主直克の時,前橋城再築が成り,67年(慶応3)帰城した。維新後も,70年には藩営製糸所が創設されるなど,生糸の町として発展した。
執筆者:

前橋市北東部の旧村。旧勢多郡所属。人口8336(2000)。赤城山南斜面にあり,東境を粕川,中部を荒砥(あらと)川,西部を大穴川が南流する。この地方特有の空っ風に備えた防風林に囲まれる民家が多い。地味が悪いため水田よりも桑園が広かったが,1969年群馬用水が完成し,開田や圃場整備が行われている。畜産が農業の中心で,シイタケも栽培されている。荒砥川上流に赤城温泉(含ボウ硝セッコウ泉,44℃),忠治温泉(炭酸鉄泉,25℃)があり,赤城登山の基地となっている。山腹の三夜沢(みよさわ)に赤城神社がある。南端の大前田は幕末の俠客大前田英五郎の出身地。
執筆者:

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世界大百科事典(旧版)内の前橋の言及

【群馬[県]】より

…面積=6363.18km2(全国21位)人口(1995)=200万3540人(全国19位)人口密度(1995)=315人/km2(全国21位)市町村(1997.4)=11市32町27村県庁所在地=前橋市(人口=28万4788人)県花=レンゲツツジ 県木=クロマツ 県鳥=ヤマドリ関東地方の北西部を占める内陸県で,栃木,埼玉,長野,新潟,福島の5県に接する。
[沿革]
 群馬県は旧上野国全域にあたり,幕末には前橋藩高崎藩沼田藩,安中藩,館林藩,伊勢崎藩,小幡藩,七日市藩,吉井藩の9藩と約25万石の天領,旗本領とに分かれ,天領を支配する岩鼻陣屋が置かれていた。…

【厩橋】より

…上野国の地名(現在の前橋の旧地名)。国衙に近接する東山道群馬駅(くるまのうまや)の近くの川(現在の利根川の前身)に架けられた橋から,地名がおこったといわれる。…

※「前橋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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