劉少奇(読み)りゅうしょうき(英語表記)Liú Shào qí

精選版 日本国語大辞典 「劉少奇」の意味・読み・例文・類語

りゅう‐しょうき リウセウキ【劉少奇】

中国の政治家。湖南省出身。モスクワ留学後、一九二一年に中国共産党に入党。一九二五年、五・三〇事件を指導。のち、白区地区で労働運動工作に従事したといわれる。人民共和国成立後、五九年、国家主席。この後、文化大革命資本主義復活の道をたどったと批判され、党籍を剥奪され、政府のすべての職を解かれた。一九八一年、名誉回復。(一八九八‐一九六九

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デジタル大辞泉 「劉少奇」の意味・読み・例文・類語

りゅう‐しょうき〔リウセウキ〕【劉少奇】

[1898~1969]中国の政治家。湖南省寧郷ねいきょう県の人。モスクワ留学後、1921年に中国共産党に入党。以後、労働運動を主に革命運動を指導。中華人民共和国成立後、国家副主席、1959年には国家主席。文化大革命で批判されて党籍を剝奪されたが、1980年に名誉回復。著「国際主義民族主義」など。リウ=シャオチー。

リウ‐シャオチー【劉少奇】

りゅうしょうき(劉少奇)

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改訂新版 世界大百科事典 「劉少奇」の意味・わかりやすい解説

劉少奇 (りゅうしょうき)
Liú Shào qí
生没年:1898-1969

中国の政治家。湖南省寧郷の出身。1922年,湖南省安源炭鉱の争議を指導して労働運動指導者として頭角をあらわし,25年には全国総工会(労働総同盟)副主席となる。国共分裂後は白区(国民党支配地区)にあって地下工作に従事,29年には東北(満州)で捕らえられたが,身分がばれずに同年釈放された。32年江西ソビエト区に入り長征に参加,35年12月陝北瓦窰堡の中国共産党政治局会議で新設の北方局書記に任ぜられ,北平(北京)に潜行,当時捕らえられていた多数の白区幹部を偽装転向で釈放させた。38年10月中共7期6中全会で中原局が新設されると書記に任ぜられた。41年皖南(かんなん)事変が起こると新四軍政治委員となり,陳毅軍長とともにその再建に功績をあげた。45年の中共第7回党大会では党副主席,49年中華人民共和国成立とともに中央人民政府副主席に就任した。54年第1期人民代表大会が開かれると常務委員長に選ばれた。56年第8回党大会では政治報告を行い,党内ナンバー・ツーの地位を確立した。59年毛沢東の後をうけて国家主席に就任,大躍進政策の失敗と天災による経済の行きづまりを鄧小平党総書記と協力して切り抜けた。

 しかし66年文化大革命が始まると,8月の8期11中全会で党内序列第8位に格下げされ,その後資本主義の道を歩む党内最大の実権派,〈中国のフルシチョフ〉という非難が集中し,王光美夫人とともに紅衛兵のつるし上げにあった。68年10月の8期12中全会では党から永久除名された。その罪状として(1)抗日戦勝利後国共内戦の危機に半私政策を唱えた。(2)解放後商工業の社会主義改造に反対した。(3)農業合作化の推進に反対し,すでにつくられていた多数の合作社を解散させた。(4)階級消滅論を唱えて階級闘争に反対した。(5)調整期に国内的には三自一包(自由市場と自留地,自営業とをふやし,請負制をとる)を唱え,国際的には三私一少(帝国主義,国内反動派,修正主義者との闘争を緩和し,各国人民の闘争への支援を減少した)の政策をとった--があげられた。彼の代表的著作で党員の必読文献とされていた〈党員の修養を論ず〉(1939)も階級闘争を無視した大毒草と非難された。劉少奇は69年失意のうちに死去したが,四人組が打倒され,文化大革命中に劉鄧路線と呼ばれて非難された鄧小平が政権の実力者となると,名誉回復の機運が高まり,80年2月,11期第5回中央委総会は正式に名誉を回復し〈劉少奇追放は党史上最大の冤罪(えんざい)事件であり,劉氏は偉大なマルクス主義者であった〉とのコミュニケを発表した。

 劉少奇は長く白区工作に従事し,組織の天才といわれ,解放後は党副主席として鄧小平総書記と組んで党務をにぎり,毛主席の後をうけて国家主席となり,自他ともに許す後継者であった。しかし毛沢東が58年大躍進,人民公社,社会主義の総路線の〈三面紅旗〉をかかげて中国独自の急進革命路線をうち出すと,表では支持しながら,内心批判的で,それが調整期の政策にあらわれた。文化大革命はこれに対する毛沢東派の反撃であった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「劉少奇」の意味・わかりやすい解説

劉少奇
りゅうしょうき / リウシャオチー
(1896―1969)

中国の政治家。湖南省出身。毛沢東(もうたくとう)も学んだ長沙(ちょうさ)の第一師範に在学したあと、モスクワの東方労働者大学に留学、帰国して1920年社会主義青年団に加入、翌1921年中国共産党に入党、1922年から中国労働組合書記部書記に任じ、湖南省安源炭鉱の争議を指導。1925年中華全国総工会副主席となり、広州、ついで武漢で活動、上海(シャンハイ)では五・三〇事件を指導。国共分裂後は国民党支配地区(白区)で地下工作に従事。1932年江西ソビエト地区に入って長征に参加、長征途次の遵義(じゅんぎ)会議では毛沢東支持の側にたった。陝北(せんほく)から北京(ペキン)に潜行、党地方局、中原局、華中局などの書記として、白区工作を行い、1941年、新四軍事件が起こると、日本軍占領下を通って新四軍地区に赴き、その政治委員として新四軍再建にあたった。1943年延安に戻り、中央書記処書記、人民革命軍事委員会副主任などに任じ、1945年の第7回党大会では中央政治局副主席として毛沢東主席に次ぐ地位についた。その間『共産党員の修養を論ず』(1939)、『党の組織を論ず』(1945)、『国際主義と民族主義』(1948)などの著作を発表、理論面でも重きをなした。1949年新中国成立とともに中央人民政府副主席、人民革命軍事委員会副主席。1954年の第1期人民代表大会では常務委員会副委員長。1956年の第8回党大会では政治報告を行い、党副主席となる。1959年には毛沢東退任の後を受けて国家主席。大躍進政策が行き詰まったあとの調整政策では、鄧小平(とうしょうへい)総書記とともに経済回復に努めたが、そのときの政策が「三自一包」(自由市場、自留地、自営業を多くし、農業生産を各戸請負制とする)として、のちに批判の的とされた。1966年、文化大革命が開始されると、その「三自一包」政策や、階級「協調」論などがあげつらわれ、「資本主義の道を歩む党内最大の実権派」「中国のフルシチョフ」として、王光美夫人とともに激しく批判され、1969年、第9回党大会で除名、公職剥奪(はくだつ)の処分を受けた。同年、河南省で死去。1980年名誉回復の措置がとられた。

[安藤彦太郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「劉少奇」の意味・わかりやすい解説

劉少奇
りゅうしょうき
Liu Shao-qi

[生]光緒24(1898).湖南,寧郷
[没]1969.11.12. 河南,開封
中国の政治家。 1920年フランス留学苦学生団の一員として渡仏し,21年中国共産党に入党。 22年から中国労働組合書記部で働き,以後約 15年間労働運動に専念した。毛沢東李立三らと安源炭鉱ストライキを指導し,25年中華全国総工会副委員長に選ばれ,五・三〇運動を指導。国共分裂後はモスクワに留学し,32年党中央政治局委員となり,同年江西ソビエト区に入り長征に参加。 35年北京に潜入し,十二・九学生運動を指導した。 36~42年党中央北方局,中原局,華中局の各書記を歴任,地下工作を指導。 41年皖南事変後の新四軍政治委員となり,その再建に功労があった。 43年党中央書記処書記,中央革命軍事委員会副主席となった。 45年七全大会で毛沢東思想を打出し,毛沢東の権力強化に貢献,同大会で中央委員,中央政治局委員,副主席,中央書記処書記に選ばれた。 49年中華人民共和国が成立すると中央人民政府副主席となり,54年全国人民代表大会常務委員会委員長に選出された。 56年八全大会で中央委員,中央委員会副主席,中央政治局常務委員に選ばれ,59年毛沢東辞任に伴い国家主席に就任,65年国防委員会主席となった。社会主義建設についての重工業優先,技術優先,エリート尊重などの考え方は次第に毛沢東と対立するにいたり,66年からの文化大革命で「資本主義の道を歩む党内最大の実権派」「中国のフルシチョフ」として徹底的な批判を受け,68年 10月の8期十二中全会で正式に党から除名され,党内外のすべての公職を解任された。 69年監獄につながれ,失意のうちに病死。 80年3月1日五中全会で名誉回復。

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百科事典マイペディア 「劉少奇」の意味・わかりやすい解説

劉少奇【りゅうしょうき】

中国の政治家。湖南省寧郷県の人。1920年フランスに留学。留学生運動を指導し追放され,帰国後,上海労働運動・江西省安源炭鉱労働クラブ,1925年の五・三〇運動,上海ゼネストなどを指導。のちソ連に留学。1932年江西ソビエト区の労働運動を指導。長征後中共中央各局の書記を歴任。皖南(かんなん)事件後の新四軍再建に活躍。1945年党中央委員・政治局委員となり,解放後,党・政府の要職を歴任し,1959年国家主席となったが,背後に毛沢東との対立があるといわれた。1966年以来,文化大革命では資本主義路線の党内実権派巨頭として批判され,1968年国家主席を解任,党籍も剥奪された。1980年名誉回復。
→関連項目中国共産党【とう】小平

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「劉少奇」の解説

劉少奇(りゅうしょうき)
Liu Shaoqi

1898~1969

中国現代の政治家。中国共産党の代表的指導者の一人。湖南省寧郷(ねいきょう)の人。夫人は王光美(おうこうび)。1921年ソ連に留学,中国共産党成立直後に入党。帰国後,安源炭鉱の労働運動,ついで五・三〇運動などを指導した。国共分裂後,地下工作に従事した。32年江西ソヴィエト区に入り,労働組合部門を担当した。遵義(じゅんぎ)会議では毛沢東を支持し,毛沢東思想に評価を与えてその有力後継者となった。中華人民共和国では各種重要ポストを占め,59年には毛沢東のあとを継いで国家主席についた。62年から鄧小平(とうしょうへい)とともに農民に一定の自由を認める政策を実施して大躍進政策の混乱収拾を図ろうとしたが,毛沢東はこれを警戒した。66年から始まった文化大革命はその標的が自分にあったにもかかわらず,当初それにまったく気づかなかった。のち「資本主義の道を歩む実権派」として批判され,68年党籍を永久剥奪されて失脚,69年に河南省の開封の牢獄で病死した。80年に名誉回復がはかられた。

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世界大百科事典(旧版)内の劉少奇の言及

【社会主義教育運動】より

…この運動の背景には,社会主義の行方をめぐる激しい路線対立があった。すなわち,社会主義社会にあっては階級闘争は消滅した,重要なのは生産の組織化だ,とする劉少奇らに対して,それと対立する立場をとる毛沢東の対立である。毛沢東は,62年の中共8期10中全会で,社会主義社会を貫いて階級闘争が存在するという過渡期階級闘争理論を打ちだし,それをふまえて社会主義教育運動を発動した。…

【新四軍】より

…国共関係が悪化すると,41年1月新四軍司令部は安徽省南部で国民政府軍に包囲され,9000人が全滅,葉挺は捕虜となり項英は戦死した(皖南事変)。中国共産党は劉少奇を政治委員,陳毅を軍長とし,7ヵ師編成で新四軍を再建。長江(揚子江)北岸地域を中心に発展。…

【中華人民共和国】より

…これは,急進路線に立つ毛沢東の強力な指導なしには不可能なことであった。 こうしたなかで,55年の上半期には,急ぎすぎた集団化のひずみを是正するため,中共中央は劉少奇の指導下に〈停止,縮小,整理〉の方針をとって集団化にブレーキをかけ,約3分の1にあたる20万の初級協同組合を解散させた。その直後,毛沢東は党の高級幹部を集めた会議で,〈全国の農村で新しい社会主義的大衆運動がいまや高まりを迎えようとしている。…

※「劉少奇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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