加東(市)(読み)かとう

日本大百科全書(ニッポニカ) 「加東(市)」の意味・わかりやすい解説

加東(市)
かとう

兵庫県中部にある市。2006年(平成18)、加東郡社町(やしろちょう)、滝野町(たきのちょう)、東条町(とうじょうちょう)が合併して市制施行、加東市となる。北は西脇(にしわき)市、東は丹波篠山(たんばささやま)・三田(さんだ)・三木(みき)の各市、南は小野(おの)市、西は加西(かさい)市と接している。なお、加東市の誕生に伴い、加東郡は消滅した。市域の北部から東部にかけては山間・丘陵地が広がる。西部を加古(かこ)川が南流し、三草(みくさ)川を合わせる千鳥(ちどり)川が中央部を、東条川が東端部を流れる。南西部では加古川の河岸段丘沖積平野が形成され、播磨(はりま)平野に続く。加古川の西岸をJR加古川線、東岸を国道175号が縦断、三草川沿いに372号が通じる。中国自動車道が横断し、ひょうご東条、滝野社の各インターチェンジがある。市の北東部から丹波篠山市にかけては清水東条湖立杭(きよみずとうじょうこたちくい)県立自然公園の指定域。

 古く当地は播磨国の東端、丹波・摂津(せっつ)両国との国境に位置する要衝で、中世までの幹線道路丹波道(ほぼ現在の国道372号に相当)は、京都、丹波から当地を経て西国へ通じていた。丹波道の要衝である三草山は1184年(寿永3)、西に平家軍、東に源義経が布陣、三草合戦の戦場となった。上三草の木戸(きど)(中村家)五輪塔(県指定文化財)は、この合戦の戦死者の供養塔と思われる。また滝野地区の光明寺(こうみょうじ)は観応の擾乱(じょうらん)や応仁の乱で、たびたび合戦の舞台となった。同寺の本堂は国登録有形文化財、銅造如来坐像は国指定重要文化財。社地区の社には722年(養老6)遷座という佐保(さほ)神社が鎮座。同社の門前には早くから町場が形成され、江戸時代には、一帯の行政、経済の中心地として栄えた。かつては佐保神社の神宮寺であったという清水寺は、丹波国境近くの清水山頂にあり、西国三十三所観音霊場の第25番札所。1594年(文禄3)に開かれた加古川舟運は、その後約3世紀にわたり、口丹波、東播磨地方の動脈となった。上滝野村・新(しん)町・北野(きたの)村・河高(こうたか)村、野(の)村などの河岸場はにぎわいをみせ、とくに河高河岸と対岸の野村河岸は、加西郡内の米・諸物資を高砂(たかさご)へ運ぶ拠点となり、多くの在郷商人を輩出した。江戸時代中期には、河高村の庄屋大久保六郎兵衛が願い出て水路(天下溝)を開削、青野原(あおのがはら)新田が開かれている。1746年(延享3)三草藩主丹羽氏は、三草川の河原を埋め立てて陣屋を建設、三草町が形成された。ほかに家原(ええばら)村に旗本浅野氏の陣屋、上田(うえだ)村には陸奥白河藩(藩主阿部氏転封のため、のち陸奥棚倉藩)の陣屋、穂積(ほづみ)村には赤穂藩領時代に加東・加西両郡の奉行所が置かれ、それぞれ在郷町を形成していた。

 現在の基幹産業は農業。米作のほか、ブドウ、イチゴ、クリなどの観光農園も増加。市域には農業用水確保のための溜池(ためいけ)が多く、また近年、東部の丘陵地を中心に多くのゴルフ場が開発されている。畑(はた)には7世紀の開創と伝える朝光寺(ちょうこうじ)がある。同寺の本堂(室町中期)は国宝、鐘楼は国指定重要文化財、多宝塔は県指定文化財。秋津薬師堂(室町末)、河高住吉神社の石造鳥居(室町末)は県指定文化財。上鴨川(かみかもがわ)の住吉神社本殿は国指定重要文化財、同社の神事舞は中世の田楽(でんがく)、能舞を伝え、国指定重要無形民俗文化財。市内に国立兵庫教育大学がある。面積157.55平方キロメートル、人口4万0645(2020)。

[編集部]


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