朝日日本歴史人物事典 「加藤恒忠」の解説
加藤恒忠
生年:安政6.1.22(1859.2.24)
明治大正期の外務官僚。拓川と号す。松山藩(愛媛県)大原有恒の3男で明治13(1880)年加藤家を継いだ。9年に司法省法学校入学,中退後仏学塾に学んだ。16年パリ法科大に入学,19年帰国とともに外交官試補となりフランス公使館勤務,35年ベルギー公使,40年に万国赤十字会議全権に就任したが,政府側と対決して辞職,衆議院に立候補,当選した。のちに大阪新報社長に就任。大正1(1912)年貴族院議員になり,パリ講和会議(1919)に随員として出席,8年シベリア派遣臨時大使となり反赤軍を支援,11年松山市長に就任。<参考文献>景浦勉編『愛媛の先覚者』
(波多野勝)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報