勤操(読み)ゴンソウ

デジタル大辞泉 「勤操」の意味・読み・例文・類語

ごんそう〔ゴンサウ〕【勤操】

[758~827]奈良末期から平安初期の三論宗の僧。大和の人。大安寺三論を学び、宮中講義を認められて大僧都東大寺別当となる。石淵寺開創石淵僧正。ごんぞう。きんそう

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精選版 日本国語大辞典 「勤操」の意味・読み・例文・類語

ごんそう ゴンサウ【勤操】

奈良後期・平安初期の三論宗の僧。姓は秦氏。大和(奈良県)の人。大安寺の信霊に学び、大僧都となる。石淵寺を創建して石淵八講をはじめ、石淵僧正と称された。きんそう。天平宝字二~天長四年(七五八‐八二七

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改訂新版 世界大百科事典 「勤操」の意味・わかりやすい解説

勤操 (ごんそう)
生没年:758-827(天平宝字2-天長4)

奈良~平安時代の僧。〈きんそう〉とも読み,石淵(いわぶち)僧正ともいう。生年には754年(天平勝宝6)説もある。空海の師と伝える。俗姓秦氏,母は島史(しまのふひと)。12歳で大安寺僧信霊について出家,770年(宝亀1)宮中および興福寺の千人得度にあずかり,20歳で受戒の後,善議について三論宗を学ぶ。たゆまざる修行を積み,813年(弘仁4)律師に任ぜられ,大極殿にて最勝王経を講じ,紫宸殿にて諸宗学僧と論義し,法相宗を破る。819年少僧都(しようそうず)となり,造東寺の別当を兼ね,ついで826年(天長3)大僧都に昇り,造西寺別当に転じ,翌年西寺の北院で入滅。70歳(一説に74歳)。僧正を贈られる。高雄山寺において,802年(延暦21)最澄の《法華玄義》等の講筵に加わり,816年(弘仁7)空海より密教三昧耶(さんまや)戒を受けるなど,最澄・空海とも道交があった。
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朝日日本歴史人物事典 「勤操」の解説

勤操

没年:天長4.5.8(827.6.5)
生年:天平勝宝6(754)
奈良・平安初期の僧。大和国高市郡(奈良県橿原市周辺)生まれ。俗姓秦氏。12歳から大安寺で三論教学を学ぶ。石淵寺で法華八講を創始する。弘仁4(813)年大極殿での論義で三論を君父,法相を臣子とする論を立てて法相の論者を破り,法相全盛の中,三論の地位向上に貢献した。南都仏教に属するが,最澄,空海の活動にも理解を示し,空海に山林修行の行法を授けたともいう。律師,少僧都,大僧都と昇進し,弘福寺,西寺の別当も勤めた。死後に僧正。石淵僧正と称された。醍醐寺,高野山普門院に説法の様子を描いたという画像が残されている。<参考文献>福山敏男『奈良朝寺院の研究』

(鷺森浩幸)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「勤操」の解説

勤操 ごんぞう

754-827 奈良-平安時代前期の僧。
天平勝宝(てんぴょうしょうほう)6年生まれ。奈良大安寺の信霊,善議に三論をまなぶ。延暦(えんりゃく)15年奈良石淵(いわぶち)寺で法華八講をはじめておこなったという。奈良弘福(ぐふく)寺や,造営中の京都西寺の別当となる。天長3年大僧都。最澄,空海と親交があった。天長4年5月8日死去。74歳。大和(奈良県)出身。俗姓は秦。通称は石淵僧正。

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世界大百科事典(旧版)内の勤操の言及

【勤操】より

…奈良~平安時代の僧。〈きんそう〉とも読み,石淵(いわぶち)僧正ともいう。生年には754年(天平勝宝6)説もある。空海の師と伝える。俗姓秦氏,母は島史(しまのふひと)。12歳で大安寺僧信霊について出家,770年(宝亀1)宮中および興福寺の千人得度にあずかり,20歳で受戒の後,善議について三論宗を学ぶ。たゆまざる修行を積み,813年(弘仁4)律師に任ぜられ,大極殿にて最勝王経を講じ,紫宸殿にて諸宗の学僧と論義し,法相宗を破る。…

※「勤操」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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