勧農使(読み)かんのうし

改訂新版 世界大百科事典 「勧農使」の意味・わかりやすい解説

勧農使 (かんのうし)

古代中世勧農のために荘園の現地へ派遣された使者年貢収納のために出向いた収納使に対置される。勧農使は農耕の開始にさきだって荘園の現地へ下り,池・溝を整備し,不耕の地には作人を割りつけ,農民たちに種子や農料を下行し,もって作田を満作させようとした。1104年(長治1)に東大寺別院崇敬寺領であった紀伊国木本荘に下向した勧農使は四至内作田のうち31町3反の土地に対して種子・農料を下してこれを耕作させている。これとは別に,源平内乱期には国衙にも勧農使がおかれた例があり,1183年(寿永2)には平氏政権下の安芸国で,在庁官人の公廨給田の割りかえを,勧農使が田所を指揮して管轄した例がみられる。一方,源氏の側でも84年(元暦1)に源義仲を滅ぼした源頼朝は,それまで義仲が支配していた北陸道諸国に対して,比企朝宗を鎌倉殿勧農使として派遣している。比企朝宗は鎌倉幕府守護制度が整備されるなかで,北陸道諸国の守護として活躍するようになるところからみて,この鎌倉殿勧農使がある意味では鎌倉幕府の守護制度の源流をなすとも考えられる。しかしながら,85年(文治1)11月におかれた鎌倉幕府の国地頭(ないし惣追捕使)が,勧農使の伝統をうけついで公然と国務に干渉していたにもかかわらず,翌年3月,北条時政が自分のもっている7ヵ国の地頭職を辞退して惣追捕使になると後白河法皇に申し出て,諸国の勧農から手をひいている。またそれをうけて,同年6月になると,今度は頼朝の要請によって,西国37ヵ国を対象として,武士の濫行を停止せよという後白河法皇の院宣が出された。これらによって国内の土地制度に干渉していた勧農使以来の国地頭(惣追捕使)の伝統が否定され,やがて国務に干渉しないことを原則とする鎌倉時代の典型的な守護制度の成立をみることとなる。
国地頭 →守護
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百科事典マイペディア 「勧農使」の意味・わかりやすい解説

勧農使【かんのうし】

古代から中世にかけて,春の農耕開始前に荘園領家が現地に派遣した使者。池溝の整備,不作田への作人の割付け,種子・農料の手配など一年の耕作を円滑にする勧農を行った。平氏政権下では国衙(こくが)に置かれた例もあり,1184年の木曾義仲滅亡後は源頼朝が北陸諸国に鎌倉殿勧農使比企(ひき)朝宗を派遣した。鎌倉幕府の守護制度の形成を示すとも考えられるが,1186年には勧農使の伝統を受け継いだ国地頭(くにじとう)が廃され,幕府は東国・九州を除き国務に干渉しないことになった。

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