北島検校(読み)きたじまけんぎょう

精選版 日本国語大辞典 「北島検校」の意味・読み・例文・類語

きたじま‐けんぎょう【北島検校】

江戸前期の箏曲名人八橋検校門弟で、琴づめ、奏法などの改革を試み、弟子生田検校に継がれた。代表作に「明石」「空蝉」など。元祿三年(一六九〇)没。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「北島検校」の意味・わかりやすい解説

北島検校
きたじまけんぎょう

[生]?
[没]元禄3 (1690).9.4. 京都?
箏曲家,作曲家。城名(じょうな)は城春。現行箏曲開祖となった八橋検校の弟子。正保2(1645)年1月1日検校に登官。江戸時代前期の大名松平直矩による『松平大和守日記』には,万治・寛文年間(1658~1673)江戸の松平邸で箏組歌のほか兼業でもあった平曲,三味線組歌(→三味線本手)も演奏したことが記されている。八橋流の伝授書によれば,組歌の手法を改め,弟子の生田検校に伝えてほどなく亡くなり,また生田流の角型の北島創案といわれるが,師の八橋に遠慮して発表しなかった。しかし,のちにいずれも生田流として行なわれるようになったという。元禄2(1689)年9月19日より翌年没するまで第34代職検校(総検校)を務めた。箏曲も当道社会において,平曲,三弦とともに盲人音楽家の専業としての基盤がつくられたことを示している。作曲に箏組歌『明石』『末の松』『空蝉』,および『羽衣』『若葉』(牧野検校説もある),『思川』(生田検校説もある)がある。また『六段の調』を編曲したともいわれている。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「北島検校」の解説

北島検校 きたじまけんぎょう

?-1690 江戸時代前期の箏曲(そうきょく)家。
八橋(やつはし)検校の弟子で,生田検校の師。正保(しょうほ)2年検校。元禄(げんろく)2年第34代職検校となった。「明石」「末の松」「空蝉(うつせみ)」などの箏組歌を作曲した。元禄3年9月4日死去。名は城春。

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世界大百科事典(旧版)内の北島検校の言及

【生田流】より

…本来は組歌およびその付物の伝承の差によって称せられたもので,八橋検校の創始したものと異なり,また隅山検校,継山検校などの伝承とも異なるという意識で当初は呼ばれた。八橋の創始を改変したのは北島検校であったが,北島は早く没したため,その門下の生田検校の名のみが後代に伝えられ,その系統を生田流というようになったともいわれる。大坂では,生田から米山検校を経て伝えられたものを特に古生田流,生田から倉橋・安村・石塚・市浦の各検校を経て伝えられたものを新生田流ともいう。…

【八橋検校】より

…62年には松平大和守邸に伺候して箏組歌や三味線組歌などを演奏している。この前後門下の北島検校も同邸に伺候しているが,63年以降の八橋の伺候の記録はないので,平藩の扶持を離れるとともに京都に移住したと考えられる。京においては,綾小路烏丸西ヘ入町に居住し,職屋敷の六老の地位にあったが,85年京都で没した。…

※「北島検校」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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