北条氏(鎌倉幕府執権家)(読み)ほうじょううじ

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

北条氏(鎌倉幕府執権家)
ほうじょううじ

鎌倉の北条氏。鎌倉幕府執権家。桓武平氏(かんむへいし)の子孫が、伊豆介(いずのすけ)として伊豆北条(現在の静岡県伊豆の国市韮山(にらやま)地区)に土着し、北条氏を称す。時政(ときまさ)の娘政子(まさこ)が、源頼朝(みなもとのよりとも)に嫁したことをきっかけに、1180年(治承4)の頼朝挙兵に従う。以後、時政は頼朝を助け、鎌倉幕府設立の功労者として重きをなした。頼朝の死(1199)後は、将軍の外祖父として権力を伸長し、同じく外戚(がいせき)の比企(ひき)氏を押さえ、2代将軍頼家(よりいえ)を廃して実朝(さねとも)を将軍とし、政所別当(まんどころべっとう)に就任、初代執権となった。その子義時(よしとき)は、実朝をも廃しようとした時政にかわり、2代執権となった。有力御家人(ごけにん)である侍所別当(さむらいどころべっとう)和田氏を討ち、侍所、政所両別当をも兼任し、幕府機構内における北条氏の地位を固めた。さらに承久(じょうきゅう)の乱(1221)で、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)軍を破り、幕府の覇権を樹立した。3代泰時(やすとき)は、評定衆(ひょうじょうしゅう)による合議制と、貞永式目(じょうえいしきもく)による法治主義根幹とする執権政治を確立した。

 一方、この時期は一門庶子家の分流がもっとも激しかったので、泰時の惣領(そうりょう)(得宗(とくそう))としての地位は非常に不安定であった。そのため泰時は得宗家公文所(くもんじょ)の設置、家令・家法の施行などにより、一門に対する惣領権(得宗権)の安定強化にも力を注いだ。得宗権は、名越(なごし)氏らの一門庶家を厳しく押さえていくなかで確立され、5代時頼(ときより)は御家人の雄族、三浦氏を倒し(宝治合戦(ほうじかっせん))、得宗専制を成立させた。8代時宗(ときむね)は、二度にわたる蒙古(もうこ)襲来を切り抜けた。9代貞時は、霜月(しもつき)騒動(1285)以降、幕政を握った内管領平頼綱を討ち得宗体制を強化し、一門と御内人(みうちびと)たちで軍事・交通の要衝を抑えながら、全国的に所領を広めた。

 しかし、一門と一般御家人の対立をはじめ、さまざまな社会矛盾が露呈し、1333年(元弘3・正慶2)、新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻めにより、得宗高時以下一門は、鎌倉東勝寺(鎌倉市葛西ヶ谷)に自刃し、鎌倉幕府とともに北条氏は滅亡した。その後、高時の遺児時行が北条氏の再興を図り挙兵した(中先代(なかせんだい)の乱)が、果たせずに終わった。

 一門には、名越、大仏(おさらぎ)、赤橋(あかはし)、金沢(かねさわ)、伊具(いぐ)、佐介(さすけ)、極楽寺(ごくらくじ)など多くの諸氏がある。

[奥富敬之]

『奥富敬之著『鎌倉北條氏の基礎的研究』(1980・吉川弘文館)』『奥富敬之著『鎌倉北條一族』(1983・新人物往来社)』


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