十二町潟(読み)じゆうにちようがた

日本歴史地名大系 「十二町潟」の解説

十二町潟
じゆうにちようがた

仏生寺ぶつしようじ川の低地にある潟湖で、「万葉集」に布勢水海ふせのみずうみと詠まれ、近世には氷見潟・氷見庄ひみのしよう潟・布施湖ふせのみずうみなどとよばれた。正保四年(一六四七)越中国四郡絵図(加越能文庫)に「潟長サ二十町五十間、幅十町五十間、深さ五尺」とある。宝暦一四年(一七六四)の旧蹟調書(三州旧蹟志)に「氷見庄潟、窪村・十二町村領に有之、長弐拾町、幅十二三町程之潟にて、氷見湊へ流出。此潟、布勢之海共又越之湖ともいふ名所之由伝候」とある。「増補大路水経」には「十二町潟又布施湖トモ云、南北長拾八町東西幅三町半」とある。十二町潟にはその川・耳浦みみうら川・布施川・万尾もお川が流れ込む。園川は二上ふたがみ山系小竹おだけ村領の山に水源をもち、いずみ村を通り柳田やないだ村でしま村からの川と合流し、園村より潟へ流れ出る。耳浦川(一部矢方川・海津川とも)蒲田かわた村・神代こうじろ村領の山に水源をもち、ほう村・海津かいづ村を通り、堀田ほりた村領の山よりの流れと耳浦村の西部で合流し潟へ流れ出る。布施川(仏生寺川、一部川尻川とも)の水源は、仏生寺村吉池よしいけと同村細越ほそごえの二水あり、同村大覚口おがくちで合流し、飯久保いくぼ村で鞍骨くらほね鉾根ほこねより流れ出る鞍骨川と合流、深原ふかわら村でさらに矢田部やたべ村よりの流れと合流し、川尻かわしり村より潟へ注ぐ。万尾川(一部久津呂川とも)粟原あわら村領の山に水源をもち、上久津呂かみくづろ村・下久津呂村を流れ、万尾村で中谷内なかやち村の山に水源をもつ中谷内川と合流し潟へ注ぐ。潟から流れ出る川はみなと(内川)である。湊川は十二町潟水吐川ともいわれ、くぼ村の後ろより氷見町の町中を通り海に出る。

寛文二年(一六六二)正月二三日付で川尻村の八石の新開が認可され(「氷見庄川尻村新開許可状」中田家文書),その後耳浦村や十二町村など周辺の村々が延宝(一六七三―八一)・元禄(一六八八―一七〇四)・宝永(一七〇四―一一)・享保(一七一六―三六)と大がかりな新開を行い(寛保二年「高免等書上帳」折橋家文書)、潟周辺に水田地帯が広がった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「十二町潟」の意味・わかりやすい解説

十二町潟
じゅうにちょうがた

富山県北西部、氷見市(ひみし)にある潟湖(せきこ)。仏生寺(ぶっしょうじ)川や万尾(もお)川などの河川の堆積(たいせき)と干拓により、現在は幅200メートル、東西約1800メートル、面積0.2平方キロメートル。水深は1メートル余。国指定天然記念物のオニバスの発生地として知られる。かつては縄文海進による浅い入り海であったが、東方の二上山(ふたがみやま)山麓(さんろく)から砂州が延びて湖になったもので『万葉集』には布勢(ふせ)の海として詠まれている。潟周辺は低湿地で、水田には縦横に水路が通じる水郷地帯。1960年代までは農作業に田舟も用いられたが、全面的な排水工事が行われた。

[深井三郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「十二町潟」の意味・わかりやすい解説

十二町潟
じゅうにちょうがた

富山県北西部,氷見市にある潟湖。奈良時代には広大で風光明美な潟湖として知られ,『万葉集』では布勢海 (ふせのうみ) または布勢水海 (ふせのみずうみ) と呼ばれた。その後の地盤の隆起,仏生寺川による土砂の堆積,近世以降の干拓事業などによって次第に湖面が縮小し,長さ 1.5km,幅 100mの一条の水路となって残る。自生するオニバスは直径2~3mの巨大な葉をつけ天然記念物に指定されている。

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デジタル大辞泉プラス 「十二町潟」の解説

十二町潟

富山県氷見市にある潟湖。かつては布勢水海(ふせのみずうみ)と呼ばれる大きな湖だったが、土砂の堆積や干拓事業により縮小し、現在の面積は約0.2平方キロメートル。周辺は都市公園として整備されている。オニバスの発生地として知られ、冬にはハクチョウが飛来する。

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