十島村(読み)としまむら

日本歴史地名大系 「十島村」の解説

十島村
としまむら

面積:一〇一・三五平方キロ

霧島火山帯上にあるとから列島に所属する口之くちの島・臥蛇がじや島・小臥蛇こがじや島・中之なかの島・たいら島・諏訪之瀬すわのせ島・悪石あくせき島・小宝こだから島・たから島・かん島・横当よこあて島などからなる。このうち臥蛇島・小臥蛇島・上ノ根島・横当島の四島は無人島。最北部の口之島は北緯三〇度線上、最南部の横当島は北緯約二九度で、全村南北約一八〇キロの長さは日本一。吐喇列島は九州本土と南島との文化の交流に重要な位置を占めた。

考古遺跡は口之島で四遺跡、中之島で五遺跡を数え、臥蛇島では一二―一三世紀の陶磁器(日本・中国・タイ製など)約七〇点を出土し、諏訪之瀬島では切石きりいし遺跡などが知られる。宝島の浜坂はまさか貝塚(縄文時代晩期該当)大池おおいけ遺跡(縄文前期)、中之島のタチバナ遺跡(縄文晩期)が注目される。浜坂貝塚からは南島の宇宿式土器・外耳土器、本土から移入された縄文時代晩期の黒川式、弥生中期の須玖式系統土器・磨製石斧・夜光貝製スプーン・イノシシ牙製垂飾・骨製簪などが出土。大池遺跡では轟式系統の土器(約四千八〇〇年前)、長崎市深堀ふかぼり遺跡や熊本県天水てんすい尾田おだ貝塚など九州に広く分布する押引列点文を器面に施した土器(尾田式)や沖縄市室川むろかわ貝塚出土の下層土器(室川式)、南九州に分布の濃厚な春日式(縄文中期)などが出土している。また竪穴住居跡群、多量の炭を伴う集石遺構(ストーンボイリング)、土器・石器のほか南海産のオオツタノハ貝やそれを加工した貝輪が多量に出土し、縄文時代の宝島で貝輪が生産されていたことが確認された。箱式石棺も検出され、石棺内からはオオツタノハ製貝輪を着装した女性人骨が発見された。タチバナ遺跡では竪穴住居跡が検出され、縄文時代晩期の九州本土土器の特徴を示す黒色研磨土器(入佐式・黒川式)が南島の喜念式土器や宇宿式土器などと共伴して出土し、南島土器の編年を確定した。切石遺跡(中世―近世)では祭祀遺構・住居跡・配石遺構などが確認されている。徳之島産のカムィヤキとよばれる陶質土器が採集されており、分布圏の北限として注目される。中世は薩摩国河辺郡十二じゆうに島のうちしち(奥七島)に属した。近世も七島として一括りにされ、口之島・中之島・宝島には津口番所・異国船番所・異国船遠見番所が設置され、鹿児島藩庁からは在番が派遣された。また七島各島には郡司が置かれた。住民はおもに漁業と交易に従事していた。

明治六年(一八七三)県の支庁設置により七島(下七島)は三島(上三島)とともに種子島に支庁を置く第五支庁の下に置かれた。

十島村
とおしまむら

[現在地名]南部町十島

北西は井出いで村、東は駿河国富士郡稲子いなこ(現静岡県芝川町)、南は富士川を隔てて巨摩郡万沢まんざわ(現富沢村)と駿河国庵原いはら内房うつぶさ(現芝川町)。松平甲斐守領分の時に遠島を十島と改めたという(甲斐国志)。慶長古高帳では遠島とあり、高四一石余、幕府領。宝暦六年(一七五六)版の三郡村高帳では高一〇六石余はすべて口留番所勤役により皆役引。「甲斐国志」によれば、村内の駿河国境付近に口留番所があり、富士川通船の改めも兼ねていた。

十島村
じゆうじまむら

[現在地名]只見町十島

只見川を挟んで塩沢しおざわ村の南に位置し、わしくら山の麓に集落がある。東に険しい左越さごえという道があり、大沼郡田沢たざわ(現金山町)に通じていた。「異本塔寺長帳」によると建久七年(一一九六)に「十島松沢寺」が建立されたという。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に「竜島」、慶長二年(一五九七)の藤三郎倉入在々高物成帳(福島県史)に「檜ケ島」と記された村が十島村と思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「十島村」の意味・わかりやすい解説

十島〔村〕
としま

鹿児島県南部,吐 噶喇列島口之島中之島諏訪之瀬島平島臥蛇島悪石島,小宝島,宝島から成る村。もとは十島 (じっとう) 村として上三島 (かみさんとう) と下七島 (しもしちとう) を合せた河辺十島 (かわなべじっとう) を村域としたが,第2次世界大戦後,北緯 30度以南の島々がアメリカ軍政下におかれたのに伴い,上三島と分断された。 1952年日本に復帰して,下七島で十島村となった。村役場は鹿児島市にある。サツマイモ,米,ジャガイモなどを産するがほとんど自給用で,肉牛の放牧,大島紬の賃織り,港湾建設の土木工事などを収入源としている。鹿児島からの船が各島を結んでいる。トカラ列島県立自然公園に属する。面積 101.14km2。人口 740(2020)。 (→川辺十島 )

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世界大百科事典(旧版)内の十島村の言及

【薩南諸島】より

…北部の種子島,屋久島は口永良部とともに熊毛郡に属し,大隅諸島ともいう。黒島,硫黄島,竹島の3島は第2次大戦前は吐噶喇列島とともに十島(じつとう)村を形成していたが,戦後北緯30゜以南の吐噶喇列島はアメリカの軍政下に入った。1952年の日本復帰後,3島は三島村,吐噶喇列島は十島(としま)村となった。…

【十島[村]】より

…古くは下七島と称され,明治中期から1946年まで上三島(硫黄島,黒島,竹島。現在の三島村)とともに十島(じつとう)村を形成していたが,同年に下七島はアメリカ軍に接収され,臨時北部南西諸島政府(のち奄美群島政府)の支配下に置かれた。52年本土に復帰して大島郡十島村となり,73年鹿児島郡所属となる。…

【三島[村]】より

…中世以降,硫黄島(鬼界ヶ島)への俊寛など多くの流人が流された地で,俊寛堂など史跡が多い。かつては上三島と呼ばれ,明治中期から現十島(としま)村域の下七島とともに大島郡十島(じつとう)村を構成していた。1946年下七島がアメリカ軍に接収されたため,上三島だけで十島村を構成した。…

※「十島村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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