千住宿(読み)せんじゆしゆく

日本歴史地名大系 「千住宿」の解説

千住宿
せんじゆしゆく

[現在地名]足立区千住一―五丁目・千住仲町・千住河原町千住橋戸町荒川区南千住一―二丁目・同四―七丁目など

江戸四宿の一つで、日光道中水戸・佐倉道の初宿。足立郡淵江ふちえ領の千住町・掃部かもん宿と豊島郡小塚原こつかつぱら町・中村なかむら(現荒川区)に置かれた。日光道中で江戸へ二里八町、武蔵国草加宿へ二里八町、水戸・佐倉道の新宿にいじゆく(現葛飾区)へ一里一九町(宿村大概帳)。宿駅制の成立の端緒は慶長二年(一五九七)の馬継場指定と伝えるが、馬継記事が確認できるのは元和三年(一六一七)四月の徳川秀忠の日光社参に随行した武家伝奏日野資勝の日記で(「日野資勝卿記」宮内庁書陵部蔵)、千住で馬を継いで武蔵国越谷に至ったことが記されている。本格的に宿場となったのは寛永二年(一六二五)に日光道中の初宿となった段階からで、当初は南から北に延びる一丁目から五丁目の千住町内のみであった(「旧考録」永野家文書)。人馬継ぎについて文政一〇年(一八二七)の日光道中千住宿村明細帳(甲田家文書)でも江戸・草加宿までともに二里八町、新宿まで一里一九町で、ほかに日光道中増田ますだ橋を経由する岩槻道の舎人とねりまで二里、下妻しもつま大原だいばら(現埼玉県八潮市)まで二里の計五ヵ所の継先があった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「千住宿」の意味・わかりやすい解説

千住宿【せんじゅしゅく】

現在の東京都足立区南部から荒川区北部にかけて形成された日光道中(下野宇都宮まで奥州道中と重複)の第1宿。江戸四宿の一つ。千住古くから荒川(現在の隅田川)北岸の交通の要地で,1594年に千住大橋が架けられ,1625年宿に指定された。江戸日本橋からは2里8町,次宿の草加宿(現,埼玉県草加市)まで同じく2里8町。水戸佐倉道下妻(しもつま)道が当宿で分岐,水戸佐倉道の新宿(にいじゅく)(現,葛飾区)や岩槻道(赤山街道)の舎人(とねり)(現,足立区)などにも継ぎ送った。宿場は初め千住1丁目〜同5丁目(現,足立区)の5町,のち南に続く掃部(かもん)宿(河原町・橋戸町を含む,現足立区),次いで荒川南岸の小塚原(こづかはら‖こづかっぱら)町・中村町(現,荒川区)が加えられ,計10町となる。千住1丁目〜5丁目を本宿または千住北組,河原町・橋戸町を含む掃部宿を新宿または千住中組,小塚原町・中村町を千住南組といった。宿建人馬は50人・50匹。1843年には旅籠屋55軒,宿内の家数2370・人数9000余,本陣脇本陣各1(《宿村大概帳》)。南組の旅籠屋を中心に食売(めしうり)女(飯盛女)が置かれ(公許150人),遊里としても機能。また近郊農村と江戸市中を繋ぐ流通拠点の役割も果たし,青物市場(ヤッチャバ)が河原町に立ち,地廻り米を扱う米穀問屋も多かった。→板橋宿内藤新宿品川宿

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典(旧版)内の千住宿の言及

【千住】より

…以来,公用貨客を運送する伝馬役,歩行(あるき)役を負担し,その代償として地子免除などの特権を与えられた。当初は千住1~5丁目の5町(のちに本宿と呼称)であったが,万治年中(1658‐61)まず掃部(かもん)宿,河原町,橋戸町の3町(新宿,足立郡)を,次いで荒川南岸の小塚原・中村両町(南宿,豊島郡)を加宿とし,この10町を千住宿と称した。江戸四宿のうちで最長の町並みの宿場となり,幕末には家数約2300軒,人口約1万人を数えた。…

※「千住宿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android