千日前(読み)せんにちまえ

精選版 日本国語大辞典 「千日前」の意味・読み・例文・類語

せんにちまえ ‥まへ【千日前】

(かつて千日念仏の回向(えこう)が行なわれて千日寺と呼ばれた法善寺門前にあたるところから) 大阪市中央区南西端、法善寺の西側にある歓楽街道頓堀難波と並ぶ「ミナミ」の盛り場の中心地。江戸時代刑場墓地があったが、明治以後にその跡地が興行地として開発され、劇場娯楽場飲食店などが並ぶ。

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デジタル大辞泉 「千日前」の意味・読み・例文・類語

せんにちまえ〔センニチまへ〕【千日前】

大阪市中央区、道頓堀難波に隣接する繁華街。明治以前には刑場・墓地があった。千日寺(法善寺)前地なのでいう。

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日本歴史地名大系 「千日前」の解説

千日前
せんにちまえ

法善ほうぜん(千日寺)東側の通りの名。近世道頓堀立慶どうとんぼりりゆうけい町と道頓堀吉左衛門どうとんぼりきちざえもん町の間の南北の通りで、千日墓所への道をさす。寛政九年(一七九七)の道頓堀吉左衛門町の式目定(大阪城天守閣蔵)に「戎橋通り千日通り両角屋敷」とみえる。戎橋えびすばし通は吉左衛門町の西、千日通は東の南北通りを表現している。通り名のもとになった法善寺が千日寺と称されるのは延宝(一六七三―八一)頃からで、千日前の呼称もこの頃生れたと推定されるが、正徳年中(一七一一―一六)には千日墓道・千日御仕置場(「千日墓所一件」成舞家文書)の用語がみえ、千日前はこの頃から法善寺前一帯の呼称として定着したようである。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「千日前」の意味・わかりやすい解説

千日前
せんにちまえ

大阪市中央区の南部、道頓堀(どうとんぼり)と難波(なんば)に隣接する大阪の代表的繁華街の一つ。千日前一丁目、二丁目の町名がある。江戸時代は大坂の市街地の南端で、刑場や墓地の並ぶ土地であった。竹林(ちくりん)寺や法善寺(ほうぜんじ)で千日念仏の回向(えこう)が始められ、法善寺を千日寺とよび、その前地(まえち)であるから千日前といわれた。明治末のミナミの大火以後発展し、映画館、演芸場、飲食店が並び、大阪の下町の雰囲気をつくっている。

[安井 司]

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百科事典マイペディア 「千日前」の意味・わかりやすい解説

千日前【せんにちまえ】

大阪市中央区南西部の一地区。難波の北部にあたり,映画館,劇場,飲食店などが集中,道頓堀,戎(えびす)橋,法善寺横町などとともに〈ミナミ〉と呼ばれる繁華街をなす。地名は付近の法善寺が千日回向(えこう)をするので千日寺ともいわれたのに由来する。
→関連項目中央[区]中坊公平

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「千日前」の意味・わかりやすい解説

千日前
せんにちまえ

大阪市中央区南西部,道頓堀と難波の間にある繁華街。明治初年まで刑場や墓地であったが,1874年墓地は移転し,刑場は廃止。空地に各種の見世物小屋が立地し,繁栄の基礎となり,1912年の大火以後繁華街となった。千日念仏で知られる法善寺 (別称千日寺) があり,地名はその門前に発達した地区であることに由来。映画館,演芸場,遊技場などの大衆娯楽場や大衆的飲食店が多い。法善寺横町にある「水かけ不動」は,水商売に関係する人々の参詣が多い。

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世界大百科事典(旧版)内の千日前の言及

【新地】より

…大坂では新開地である新地の繁栄を図るため,茶屋,煮売屋,風呂屋,芝居小屋など遊興施設の営業を許可したため,都市の発展にともない難波新地,曾根崎新地などは大坂の中でも有数の繁華街となった。難波新地の法善寺は千日回向を行う千日寺として知られ,その門前である千日前の繁栄は近代に至るまで受けつがれている。曾根崎新地は揚屋,遊女屋の営業が中心となり,江戸中期以降大繁盛する。…

※「千日前」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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