千葉(県)(読み)ちば

日本大百科全書(ニッポニカ) 「千葉(県)」の意味・わかりやすい解説

千葉(県)
ちば

日本列島のほぼ中央部、関東地方の南部に位置する県。県庁所在地は千葉市。北は利根川(とねがわ)を挟んで茨城県、北西は江戸川によって埼玉県、東京都と接し、南には房総半島が大きく突き出て太平洋と東京湾を分ける。日本列島が南北から東西へと方向を転ずる変換点にあり、半島性が県の風土と県民の生活を特色づけている。南半部の房総丘陵やそれに続く北の下総台地(しもうさだいち)が広く展開し、台地周辺には利根川と江戸川の低地や九十九里平野(くじゅうくりへいや)、東京湾岸平野が形成され、台地を刻む谷津田(やつだ)が各地にみられる。古代、総国(ふさのくに)といわれていたが、大化改新後上総国(かずさくに)・下総国が誕生し、その後、奈良時代に上総国の南部が分割されて安房国(あわのくに)となった。中世には安房の里見氏をはじめ諸侯が勢力を競い、近世期には江戸幕府の政策で幕府直轄地と旗本知行(ちぎょう)地が広く、小藩が分立することとなった。

 千葉県は古くから農牧水産業が盛んであるが、工業化は、東京に近接しているにもかかわらず、資本主義発展期の経済動脈が東京以西にあったので立ち後れをみた。しかし第二次世界大戦後、東京湾岸の埋立地造成と大工場の誘致に成功して一大臨海工業地域が形成され、工業県として全国有数の地位を占めるに至った。東京湾岸とその周辺域では1960~1980年代に住宅地の開発が顕著で、大規模な住宅団地やマンション群が多く、人口急増を呈するとともに地価の上昇を招いてきた。2020年(令和2)の人口をみると、全国的地位は628万4480人で第6位である。また製造品出荷額は第8位(2021)を示す。農業産出額は第6位(2021)にあり、都市近郊の野菜や牛乳の生産地域として著しい発展を遂げている。1978年(昭和53)に新東京国際空港(現、成田国際空港)が成田市三里塚(さんりづか)一帯に開港され、さらに木更津(きさらづ)と川崎を結ぶ東京湾横断道路(東京湾アクアライン)が1997年(平成9)12月に開通するなど首都東京との一体化が進んでいる。また自然景観に優れた長大な海岸線やローカル色豊かな郷土景観を有していて、身近な観光レクリエーション空間を大都市住民に提供している。

 面積は5157.57平方キロメートル。2020年10月の時点で、37市6郡16町1村からなる。

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自然

地形

房総半島の地形は、南に高く房総丘陵嶺岡(みねおか)山系の愛宕山(あたごやま)(408メートル)を最高所として北へ傾斜しつつ下総(しもうさ)台地へと続き、さらに10~20メートルの比高をもって利根川や江戸川の低地へと落ち込んでいる。東京湾岸には江戸川や養老川、小櫃川(おびつがわ)、小糸川(こいとがわ)のつくる三角州平野があり、太平洋側には隆起海岸平野の九十九里平野がある。房総丘陵の標高は300メートル程度で高くはないが、幼年期後期から早壮年期の侵食段階にあって急傾斜の谷が深い。鹿野(かのう)山南部の九十九谷(くじゅうくたに)の景勝地はその代表例である。地質は、三浦半島と同じ新生代第三紀の砂岩・頁岩(けつがん)の互層からなる嶺岡層群を中心に、凝灰岩や泥岩の堆積(たいせき)がみられる。鋸山(のこぎりやま)から清澄山(きよすみやま)に至る東西方向の断層によって房総丘陵が北の上総(かずさ)丘陵と南の安房(あわ)丘陵に分けられ、その間に館山(たてやま)平野、長狭(ながさ)(鴨川(かもがわ))平野などの地溝帯が形成された。保田(ほた)から鴨川に至る嶺岡破砕帯は蛇紋岩の風化した粘土質の土壌で、地すべり地帯をなし、地表面下2メートルほどの小規模な地すべりが各地で発生して、水田や民家に多大の影響を与えている。下総台地は第四紀更新世(洪積世)に形成された地形で、地層は下部から順に古い粘土層、砂質浅海堆積物の成田層、富士箱根火山の噴出した火山灰からなる赤土の関東ローム層で構成される。ローム層は3~6メートルの深さで広く分布しており、下総は「石無しの国」とか「水無しの国」ともよばれるほどであった。台地の表土は腐食に富むが地下水を得にくかったので、広大な原野は長く放置され、近世期には幕府直轄の野馬の放牧地である小金五牧(こがねごまき)・佐倉七牧(さくらななまき)が開かれたにすぎなかった。その他の一部の地域では被圧地下水を利用した上総掘りの掘抜き井戸が開発されて新田集落も徐々に発生したが、一般的には台地を刻む樹枝状の谷津田(やつだ)が各地に発達していて、天水に依存した低生産性の湿田ではあったものの、そこが居住の場となっていた。なお、上総掘りの技術は国の重要無形民俗文化財に指定されている(用具は重要有形民俗文化財)。上総では19世紀初期に始められたが、上総掘りの名称は明治に入ってからのもの。

 利根川下流地域は古代には香取(かとり)海という湾入であったが、近世期初頭に利根川の流路が現在のように銚子(ちょうし)方向へと変えられて土砂の堆積が進み、低湿地が形成されるとともに、手賀沼(てがぬま)、印旛沼(いんばぬま)、与田(よだ)浦、霞ヶ浦(かすみがうら)などの湖沼群が取り残された。江戸川下流の低湿な葛飾(かつしか)平野も同様な性格をもち、河口近くの埋立地では地盤沈下が続いていて問題となっている。養老川、小櫃川のつくる市原(いちはら)や木更津(きさらづ)の平野は、利根川、江戸川ほどに低湿ではなく、比較的肥沃(ひよく)な水田地帯をなす。九十九里平野は長さ60キロメートル、幅7~10キロメートルで、海岸に沿って十数列の砂丘列があり、砂丘と低湿地が交互に配置している。この低湿地は水田化されたが、かつては排水が悪くて干害も多く農民は苦しめられてきた。第二次世界大戦後、大利根用水、両総用水が利根川から引かれ、安定した農業地帯となった。

 県内の自然公園には、水郷筑波(すいごうつくば)国定公園、南房総国定公園と、県立自然公園として大利根、九十九里、高宕(たかご)山、嶺岡山系、養老渓谷奥清澄(おくきよすみ)、富山(とみさん)、印旛手賀、笠森鶴舞(かさもりつるまい)の八つがある。

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気候

千葉県の気候は、半島状の地形から南北差が著しく、冬に南房総ではナノハナキンセンカ、ストックなどの露地花が咲き乱れている一方、下総台地上では北西の季節風を受け畑に霜柱が立つ。1月の月平均気温は房総半島最南端の白浜付近で6℃以上、東京湾岸の千葉市で約5℃、内陸部の下総台地中央で4℃となる。年降水量は房総丘陵の清澄山系や鹿野山付近で2200ミリメートルの最高値を示し、南房総の勝浦で1900ミリメートル、北総の野田(のだ)で1300ミリメートル程度であり、南部ほど降水量が多い。台風の影響もあって9~10月に降水量が多く、冬は著しく少なくなるので、下総台地上は冬に乾燥した畑の表土が北西風で吹き上げられ、とくに春一番のころには砂ぼこりが一面に舞う。農家はこの風を防ぐためにケヤキ、スギ、マキなどの防風林を仕立て、畦(あぜ)には茶の木を植えたりした。またこの冬の乾燥を利用して1980年ごろまではサツマイモの切干し、のりの天日乾燥、九十九里浜での魚の干物製造などが行われ、冬の風物詩となっていた。

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歴史

先史・古代

千葉県には縄文・弥生(やよい)時代の生活を跡づける資料として貴重な貝塚が下総(しもうさ)台地末端部の各地に分布しており、千葉市にある日本最大の加曽利貝塚(かそりかいづか)はその代表例で国指定史跡である。貝塚の分布状況から、当時、東京湾岸、九十九里平野、利根川低地などは海面下にあって、その後の海退によって陸地化したことが明らかとなる。4~5世紀になると大和(やまと)朝廷の勢力がこの地に及び、房総には11の国造(くにのみやつこ)が任命された。それらの豪族のものとされる墳墓は国指定史跡となっている。印旛(いんば)郡栄(さかえ)町にある房総風土記(ふどき)の丘公園の岩古墳屋(いわやこふん)や、木更津(きさらづ)の金鈴塚古墳(きんれいづかこふん)、芝山古墳群(しばやまこふんぐん)などをはじめ小規模な古墳が県内各地に残されている。その後、下総国、上総(かずさ)国、安房(あわ)国が生まれ、それぞれ市川市国府台(こうのだい)、市原市能満(のうまん)、南房総(みなみぼうそう)市府中(ふちゅう)に国府が置かれ、国分寺も開かれた。一宮(いちのみや)は下総に香取神宮(かとりじんぐう)、上総に玉前神社(たまさきじんじゃ)、安房に安房神社があり、養老川、小櫃(おびつ)川、小糸川流域には条里制が施行されていて、歴史の古さを物語っている。

 平安時代には60近くの荘園(しょうえん)が発達していたが、このうち桓武(かんむ)天皇の子孫平忠常(ただつね)は千葉市土気(とけ)に居城して房総三国を支配するほどに成長した。その子常将(つねまさ)(桓将)は千葉氏を名のり、その曽孫(そうそん)常重(つねしげ)は千葉市亥鼻台(いのはなだい)に城を移して今日の千葉の基礎を築いた。

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中世

千葉氏6代目にあたる常重の子常胤(つねたね)は、石橋山の合戦に敗れ安房に逃れてきた源頼朝(よりとも)を助け、鎌倉幕府の成立に貢献したので下総国守護に任じられ、千葉六党の武士団を下総各地に配して300年以上にわたって勢力を振るった。その後、千葉氏は内紛によって衰退するが、これにかわって室町時代中期から戦国時代にかけて新田(にった)氏の子孫里見義実(よしざね)を初代とする里見氏が安房を拠点として力を強め、6代義堯(よしたか)は下総・上総をも平定した。しかし小田原北条(ほうじょう)氏との相次ぐ合戦を経て、豊臣(とよとみ)秀吉の小田原攻めに際して参陣が後れたことから安房一国の領主に格下げされ、さらに関ヶ原の戦いでは徳川方について戦ったものの、10代忠義(ただよし)は大久保忠隣(ただちか)事件に連座して伯耆(ほうき)(鳥取県)倉吉(くらよし)へ左遷されてその地で断絶した。

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近世

江戸時代の房総はその多くが徳川幕府の直轄地や旗本知行地(ちぎょうち)となり、また下総に佐倉(さくら)・臼井(うすい)、上総に大多喜(おおたき)・久留里(くるり)・佐貫(さぬき)などの小藩が置かれていて分割統治下にあった。幕府の基礎を築くために小藩の転封が多く不安定な治政が続いたが、そのなかで近世中期(1746)以後、佐倉藩の堀田氏は11万石を与えられて明治維新まで房総最大の地位を保った(後期堀田氏)。堀田氏はそれ以前の1642~1660年(寛永19~万治3)の間にも佐倉藩主だったが(前期堀田氏)、堀田正信(まさのぶ)時代の1653年(承応2)には、名主佐倉惣五郎(そうごろう)が苛政(かせい)を幕府に直訴したといわれる。近世期の千葉城は廃墟(はいきょ)となって城下町は衰退したとはいえ、寒川(さむがわ)港は佐倉藩の物資を積み出す港町として栄え、また千葉街道の宿場としても機能した。

 近世期の農漁村は新田開発や新しい沿岸漁業の導入によって大きく発展した。まず利根川筋や江戸川の低地、手賀沼・印旛沼沿岸などの干拓や下総台地の谷津田(やつだ)の新田開発が進められて、幕末までの石高(こくだか)増加は下総22万石、上総5万石、安房9万石の計36万石に達した。下総台地上には小金五牧・佐倉七牧の幕府直轄の広い牧場が展開しており、これに加えて乏水性の土地条件から台地の新田開発はむしろ抑制された。1654年(承応3)に、江戸湾へ注いでいた利根川は、江戸の洪水防止と周辺地域の農地開発を目的として銚子(ちょうし)へ流路が変えられ鬼怒(きぬ)川と合流されたため、香取海の湾入は土砂の堆積(たいせき)によって低湿地が形成され、入り江は逆デルタによって埋められて手賀(てが)沼や印旛沼が発生した。利根川下流右岸の新田の一つ水郷十六島は、徳川氏が近世期初頭に対岸の常陸(ひたち)佐竹藩に対する防御目的から帰農武士団に新田を開発させたもので、16の新村が成立した。九十九里平野北部の椿海(つばきうみ)も、湖水を太平洋へ流す新川の開削によって干拓され、18村、石高2万石余りの町人請負新田が生まれ、のちに干潟八万石とよばれるほどの穀倉地帯となった。

 銚子や九十九里浜では紀州漁民の出稼ぎによってイワシの地引網漁業が伝えられ、肥料用の干鰯(ほしか)生産が著しく伸びて、九十九里浜には内陸の村から分村した漁村の納屋(なや)集落が各地に発生した。東京湾岸でも幕末に小糸川河口の青堀(あおほり)で江戸ののり商人がのりの養殖を試みて成功し、千葉県ノリ養殖発展の基礎をなしたり、五井(ごい)や行徳(ぎょうとく)の海岸では製塩が盛んとなっていた。

 物資の流通は、近世期前期までは房総半島沖から江戸湾へ入るため危険が多かったが、後期になると利根川水運が栄えて、小見川(おみがわ)、佐原(さわら)、安食(あじき)、木下(きおろし)などの河港町が発達し、さらに関宿(せきやど)から江戸川へ入って、沿岸の野田、流山(ながれやま)、松戸、行徳などの河岸(かし)を経て江戸へ物資が運ばれた。野田のしょうゆ工業の発展もこの水運の便によるところが大きかった。

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近代

幕末から明治維新へかけての動乱期に、房総の各藩は請西(じょうざい)藩を除いては朝廷側につき新政府発足後も存続したが、これに加えて徳川氏を70万石の駿府(すんぷ)城主としたことから、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)の大名が上総、安房へ移封されることになり、上総に菊間(きくま)、桜井、小久保(こくぼ)、鶴舞(つるまい)、松尾の5藩、安房に長尾、花房(はなぶさ)の2藩が設置された。しかし1871年(明治4)7月の廃藩置県によって26県となり、同年11月に安房・上総は木更津県、下総はそのほとんどが印旛県、下総のうち東部の香取・海上(かいじょう)・匝瑳(そうさ)3郡は新治(にいはり)県に統合された。木更津県の県庁は木更津、印旛県は市川の本行徳、のちに流山へ移されたが、1873年に両県が合併して千葉県が誕生し、千葉に県庁が置かれた。当時、行政的には22郡145町2670村で、人口は103万7546であった。その後、1875年に新治県内の3郡が編入されるとともに、利根川を境として北は茨城県へ管轄替えとなり今日の行政区域が成立し、1889年の町村制によって42町316村に統合・整理された。

 明治政府は東京とその周辺の士族・無産階級の窮民救済を目的に、旧幕府直轄の牧を農業用地に開拓することを計画した。東京の豪商35人に下総牧野開墾会社を設立させ、1万人の公募を行って入植者の開墾を期した。1871年には小金牧に初富(はつとみ)、二和(ふたわ)、三咲(みさき)、豊四季(とよしき)、五香(ごこう)、六実(むつみ)、十余一(とよいち)、十余二(とよふた)、佐倉牧には七栄(ななえ)、八街(やちまた)、九美上(くみあげ)、十倉(とくら)、十余三(とよみ)などの新しい開拓集落が生まれ東京新田とよばれた。入植者は6300人で、7460ヘクタールの開拓地のうち1590ヘクタールに作付けされたが、厳しい自然環境のなかで農業に不慣れな入植者は次々に離散し、翌年には会社は早くも解散した。その際に一部の入植民は五反歩の土地が与えられて独立農民となり、残りの土地は出資者が分割所有したが、その後開拓地の多くは近在地主層の手中に収まった。この地域が今日、近郊農業生産地域をなすと同時に、住宅地としても著しい人口増加をみせている。

 千葉県の初代県令柴原和(しばはらやわら)は産業振興にあたって、当時の中核的産業であった漁業と茶業を保護した。このうち茶は明治初年には全国第7位の生産を示していたにもかかわらず、業者の組織化が後れたり、茶の輸出港が横浜から清水(しみず)へ移されたために衰退した。一方では下総台地上で明治後期から養蚕業が発展し、全国有数の地位を占めるほどであった。

 県東部に製糸工場が発生したり、サツマイモを原料としたデンプン工場も各地に立地していたとはいえ、第二次世界大戦前においては野田や銚子のしょうゆ工業が千葉県を代表する工業であった。幕末、野田には20以上のしょうゆ醸造業者がいたが、明治中期には一族8家となり、1917年(大正6)にはこれが合同して、その後の著しい発展の基礎をなした。大正デモクラシーの風潮に対応して労働争議も頻繁に起こるようになり、工業経営の近代化がいっそう進んだ。

 明治以後の千葉県の発展にとって、軍関係施設が各地に設置されたことと、鉄道網が整備されたことは大きな意義を有した。明治中期には習志野(ならしの)、千葉、四街道(よつかいどう)、佐倉などに陸軍演習場や連隊が設置され、昭和期に入って木更津、館山(たてやま)に海軍航空隊が置かれて軍都の機能を強めた。前者は第二次世界大戦後、文教地区や住宅地に開放されて人口急増地域へと変貌(へんぼう)した。利根川や江戸川の水運は明治以後も蒸気船に引き継がれていたが、明治中期以後になると鉄道が敷設されて交通体系が変化し、ここに明治中期に開通した利根運河もその利用がしだいに減少していった。1894年(明治27)に本所(東京)―佐倉間に総武鉄道が通じ、3年後には銚子まで延長されて、銚子―両国(東京)間は利根水運時代に比べて所要時間は4分の1に短縮された。その後、房総半島中南部へ鉄道が延び、1929年(昭和4)には鴨川(かもがわ)を結節点として房総東線・房総西線の環状線が完成した。1935年には御茶ノ水―千葉間が電化され、稲毛(いなげ)、幕張(まくはり)の海岸は海水浴、潮干狩の客でもにぎわった。一方、京成電鉄は上野を基点に総武本線に並行して電車を走らせ、1921年(大正10)には千葉まで、1926年には津田沼から成田まで延長し、沿線の住宅地化を促進するとともに、成田山新勝(しんしょう)寺への参詣(さんけい)客を輸送した。

 昭和初期の下総台地上では、東葛(とうかつ)地域で近郊野菜地域が形成されつつあったが、千葉市以東では麦、サツマイモ、ラッカセイなどの栽培が卓越し、東京湾岸では、のり、貝の、半農半漁村が連続していて、第一次産業に依存した産業構造をなしていた。工業化は、関東大震災(1923)後に東京から市川付近に移転した工場があったもののその後は停滞的であり、第二次世界大戦中に千葉市の埋立地に日立航空機工場が立地したとはいえ十分な成果をあげえなかった。この埋立地は戦後の川崎製鉄(現、JFEスチール)の誘致によって千葉県工業化の先駆けをなし、以後工業県への脱皮が図られたのである。

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産業

千葉県は、1950年(昭和25)当時の産業別就業者構成をみると、第一次産業63%、第二次産業12%、第三次産業25%で、いまだ農業県であったといえる。その後、県当局の工業化政策の推進によって一大臨海工業地域が形成され、内陸工業団地も各地に展開するに及んで工業のウェイトは高まり、同時に商業・サービス機能も充実した。2010年(平成22)では、第一次産業3%、第二次産業21%、第三次産業76%となった。半農半漁の東京湾岸は埋め立てられ、白砂青松の自然の海岸線は後退して、沖合いに張り出したコンクリートの人工海岸に変わり、大工場の集合煙突が立ち並んだり、計画的な住宅地や近代的オフィス街ともなって、景観変化が顕著である。工業化や都市化に伴う東京湾岸地域の経済発展に比べて、利根川下流地域や下総(しもうさ)台地東部、九十九里平野、房総丘陵を含む南房総地域は相対的に経済的立ち後れが目だっており、人口減少・停滞を示していて、地域格差が明らかである。

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農林業

千葉県が産業構成上、農業県から工業県へと大きく変化したとはいえ、農業産出額では全国的にみても高い地位にある。また野菜生産量も東京市場で上位の座を占めている。これは、東京に隣接していて近郊農業としての野菜生産が増加したためであり、豚・乳牛などの畜産の発展も著しいからである。第二次世界大戦前には、利根川下流平野や九十九里平野、東京湾岸平野をはじめ全県的に米作が行われ、下総台地では小麦、アワ、ソバ、大豆、ラッカセイなどの雑穀・豆類やサツマイモが栽培されていたにすぎなかった。戦後も八街(やちまた)付近ではラッカセイ、南房総では花卉(かき)・乳牛、東葛(とうかつ)では野菜が特化していたが、全県的には米と麦、サツマイモがおもな農産物であった。1960年(昭和35)ごろから農業構造改善事業によって商業的農業への転換が進み、下総台地中央の八街ではニンジン、ゴボウ、サトイモなど野菜生産へと傾斜し、県北東部の香取・海匝(かいそう)地区では養豚、銚子(ちょうし)台地のキャベツ、九十九里平野では施設園芸によるトマト・キュウリなどの野菜類、安房(あわ)地区では乳牛と花卉の生産が集中している。畑地率の高い八街付近では農家1戸当り経営耕地面積も広く、専業農家率も高くて純農村的性格を色濃く残している。

 畜産部門では古くから安房の酪農が盛んであり、明治政府の手で嶺岡牧場がつくられて以後、近隣農家に乳牛が払い下げられて普及し、米作との複合経営のもとに数頭の牛を飼う零細経営が続けられてきた。東葛地域での近郊酪農をも含めて千葉県の生乳生産量は第6位(2021)。養豚はかつてサツマイモのデンプンかすを飼料に利用したために北東部に偏在しており、生産額は急上昇してきた。

 果樹では小規模ながら特産地が形成されている。市川から鎌ヶ谷(かまがや)にかけてのナシ産地は都市化によって北部の白井(しろい)市へと移動しつつあるが、内房の南房総(みなみぼうそう)市のビワは長崎県の茂木(もぎ)とともにわが国の二大産地をなしている。南房総の海岸部では米や花と畜産・漁業などとの複合経営が多い。花卉栽培は、1955年以降ビニルの普及とともに、露地からビニル栽培へ移行し、1970年代後半にはガラスハウスでの栽培もみられるようになった。九十九里平野では施設園芸のほか、水田がマキをはじめとする植木栽培地へと変わっており、八日市場(ようかいちば)、東金(とうがね)はその中心である。

 千葉県の森林面積は県土の3分の1にすぎず、林業は房総丘陵・下総台地上を中心とするとはいえ停滞的である。県央の旧山武(さんぶ)郡域を中心として江戸時代中期に起源をもつ山武スギの美林がみられるが、素材生産は減少している。

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水産業

東西は太平洋と東京湾の長い海岸線を有し、北と西は利根川、江戸川に沿う千葉県は、古来、水産業が盛んであった。江戸時代に紀州(和歌山県)漁民が進出して九十九里浜・銚子で干鰯(ほしか)生産のための地引網を伝えた。明治以後、漁法は揚繰(あぐり)網にかわって沖合いへ出漁するようになり、漁種も多様化してきたが、イワシが千葉県最大の魚種であることに変わりはない。銚子を最大の漁港として、南房総の岩石海岸地帯には大原、勝浦、小湊(こみなと)、天津(あまつ)、鴨川(かもがわ)、千倉(ちくら)、船形(ふなかた)、保田(ほた)などの主要漁港が連続し、巻(まき)網、刺(さし)網によるイワシ、サバの水揚げが多い。九十九里浜の漁業は停滞し、施設園芸や観光業の性格が前面に出ている。南房総ではアワビ、サザエ、海藻などの磯根(いそね)漁業が特色をなし、白浜、御宿(おんじゅく)には海女(あま)・海士(あま)がいる。富津(ふっつ)、勝浦にはクロダイ、マダイ、ヒラメなどの種苗生産を行う県水産総合研究センターの種苗生産研究所があり、沿岸漁業の振興が図られている。東京湾岸ではそのほとんどの海域が埋め立てられてのりや貝の養殖場は失われたが、木更津(きさらづ)沖には一大養殖場が残され、富津岬南方では新たな養殖場も開発されて、のりの生産は継続されている。一方、内水面漁業は、印旛(いんば)沼、手賀(てが)沼、与田浦などでコイ、フナ、ウナギの養殖が行われてきたが、手賀沼、印旛沼は水質が悪化、与田浦は干拓により面積が減少した。利根川下流ではシジミが採取されているが、利根川河口堰(せき)設置に伴う環境の変化によって生産は大幅に減じた。

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鉱工業

千葉県の鉱業は、茂原(もばら)市を中心とした九十九里南部地域や東京湾岸で天然ガスの採取がなされ、副産物のヨードが生産されるにすぎないが、その生産量は全国の約80%に及ぶ(2010)。1917年(大正6)大多喜(おおたき)に天然ガス会社が設立され、第二次世界大戦後に天然ガスを化学製品に変える技術が導入されて、1957年(昭和32)茂原に化学肥料を生産する東洋高圧工業(現、三井化学)の工場が立地し、茂原の工業化の基礎をなした。しかし1970年ころまでは天然ガスくみ上げによる地盤沈下が最大年10センチメートルにも及び、1973年県と採取業者の間に地盤沈下防止協定が結ばれて、以後、沈下量は2~4センチメートルへと減りはしたものの大きな問題となっている。

 千葉県の工業は長い間、しょうゆ工業に代表される地場産業、農村工業にとどまっていた。近代工業立地の契機は、1935年(昭和10)商工省によって東京の工場分散が計画され、市川・船橋に若干の機械工業が進出したことにある。その後1940年に、内務省の臨海工業地帯に関する方針によって、市川の江戸川河口から市原の五井(ごい)に至る東京湾岸を工業用地として埋め立てることが計画され、千葉市中央区今井町地先に300ヘクタールが完成し日立航空機工場が立地した。第二次世界大戦後、この土地が千葉県臨海コンビナート発展の核として転用、開発された。県当局は1950年川崎製鉄(現、JFEスチール)の誘致に成功し、川崎製鉄は追加の埋立てをして3年後には操業を開始するに至った。1957年には東京電力が120万キロワットの火力発電所を稼動し、一帯の工業化を促した。当初の企業誘致には自然埋立方式がとられ、埋立免許は県が所有して土地造成を進出企業に委託し、事業費、漁業補償費、道路整備費も進出企業の負担であった。しかしその後開発された市原市以南の新興石油コンビナート地域については県が主導権を握るようになり、この開発方式は千葉方式とよばれた。埋立事業は県営とするが、その資金は進出企業の予納によってまかない、事業費、埋立工事費、漁業補償費に充当したのである。なお木更津南部から君津(きみつ)にかけては八幡製鉄(やはたせいてつ)(現、日本製鉄)が1961年に進出し、さらに富津(ふっつ)岬北側の東京湾の埋立てが進行して、千葉県の東京湾岸は木更津市の小櫃(おびつ)川河口付近の一部を除いて、そのほぼ全域が埋立地となっている。こうして製鉄、石油精製、石油化学の工場や火力発電所などの有力企業が多数集積することになり、1978年の製造品出荷額に占める重化学工業の割合は75%にも達した。工業従業者は3分の1が県内居住者、3分の1が配置転換により北九州・関西方面よりの転入者、残り3分の1はその他の各地から集まった者といわれ、その数は1978年で28万2000人で、約20年前の4倍に達した。2021年(令和3)時点の従業者数は20万6017人、製造品出荷額等は11兆9264億円で、それぞれ全国の第12位、第8位に位置している。臨海工業地域の形成だけでなく、県当局は内陸工業団地を各地に開発し、松戸、柏(かしわ)、野田、習志野(ならしの)、八千代(やちよ)、千葉など東京に近接した下総台地西部には、金属・機械・食品工業などが分散立地するに至り、千葉県工業に占める内陸工業の地位も高い。

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交通

千葉県の人口増加は一面では東京への通勤人口の急増を引き起こし、朝夕の交通混雑が毎日繰り返されている。その解消のために、1969年(昭和44)に東京の都心と西船橋を結ぶ地下鉄東西線が開通し、1971年にはJR常磐線(じょうばんせん)が複々線化され、1981年にはJR総武本線(そうぶほんせん)が千葉まで複々線となり快速電車が増発された。京成電鉄、新京成電鉄、東武鉄道野田線、総武流山電鉄(ながれやまでんてつ)なども沿線に住宅地が開発され通勤利用が多いが、千葉以遠のJR内房線(うちぼうせん)、外房線(そとぼうせん)、成田線もその利用が増えている。ローカル線の木原線は1988年第三セクターのいすみ鉄道に生まれ変わった。その一方で1978年にはJR武蔵野線(むさしのせん)が西船橋まで開通、1979年に北総開発鉄道(2004年北総鉄道と改称)北初富―小室間が開通し、その延長線の住宅・都市整備公団鉄道(1999年都市基盤整備公団、2004年千葉ニュータウン鉄道と改称)が1995年(平成7)印西牧の原(いんざいまきのはら)まで開通、2000年には印旛(いんば)日本医大駅まで開通した。人口密集地域の千葉海浜ニュータウン内にはJR京葉線(けいようせん)が1986年部分営業を開始、1990年3月、蘇我(そが)―東京間が直結された。私鉄の千葉急行(1992年千葉中央―大森台、1995年大森台―ちはら台開通、1998年営業譲渡により京成電鉄千原線となる)や、第三セクターによる東葉高速鉄道(西船橋―東葉勝田台)も1985年着工、1996年に開通した。また、2005年にはつくばエクスプレス(首都圏新都市鉄道)が開業し、流山市と柏市が東京の秋葉原と直結した。

 自動車交通網も年々整備されており、国道14号、16号のほか、京葉道路、首都高速湾岸線、東関東自動車道、新空港自動車道、圏央道、常磐自動車道などの産業道路をはじめ、千葉東金(とうがね)道路、九十九里道路、房総スカイライン、館山自動車道などの産業・観光用の有料道路が建設された。1994年には東関東自動車道の千葉南―木更津南間(館山自動車道)が開通して交通渋滞緩和に役だっているが、一方では京葉道路の交通量は飽和状態で、都心へ向かう朝の自動車はたいへんな渋滞に巻き込まれる。半島性の千葉県は東京湾を挟んで神奈川県と向き合っており、金谷(かなや)―久里浜(くりはま)間にフェリーが就航している。1997年に木更津―川崎間の東京湾横断道路が開通し、これに伴い、木更津―川崎間のフェリーは廃止された。

 幾多の苦難を乗り越えて1978年(昭和53)5月に開港した新東京国際空港(現、成田国際空港)は、日本の空の表玄関として2017年(平成29)現在、1日689便の飛行機が発着し、利用者数は1985年の1170万人が2003年には2600万人以上、2017年には4000万人以上に増加した。

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社会・文化

教育・文化

千葉県の文化史上、まず鎌倉時代の日蓮上人(にちれんしょうにん)の名をあげねばならない。現在の鴨川(かもがわ)市小湊(こみなと)で誕生し、12歳で清澄寺(せいちょうじ)に入り、のちに出家して各地で修行した。1253年(建長5)清澄寺で法華経(ほけきょう)こそ仏教の本質であると悟り日蓮宗を創始したが、『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』を著して辻(つじ)説法によって布教活動を展開したため、他宗や幕府の弾圧にあった。今日、鴨川市小湊の誕生寺、清澄寺や市川の法華経寺をはじめ、県下に日蓮宗の寺院が多数分布している。江戸時代前半には浮世絵師の菱川師宣(ひしかわもろのぶ)や甘藷(かんしょ)栽培に功績のあった青木昆陽(こんよう)、さらに佐原(さわら)の商人であり51歳で江戸へ出て暦学を修め、全国を測量して『大日本沿海輿地(よち)全図』を作成した地理学者の伊能忠敬(いのうただたか)など著名な文化人が活躍した。房総最大の大名であった佐倉(さくら)藩の堀田氏は藩学(はんがく)を奨励した。1792年(寛政4)に佐倉学問所が創設され、のちに温故堂と称して四書五経などの漢籍を講じた。1836年(天保7)佐倉城大手門外に医学・武術・砲術を教える成徳(せいとく)書院の学問所を設け、多くの学者を輩出した。1842年には医学局を置いて蘭学(らんがく)隆盛の基礎をつくったが、翌年蘭医として招かれた佐藤泰然(たいぜん)は順天堂(じゅんてんどう)の病院を開設した。農村では江戸時代後期の文化(ぶんか)年間(1804~1818)、国学の平田篤胤(あつたね)は荒廃した農村の復興のために下総(しもうさ)の香取(かとり)郡・海上(かいじょう)郡で村の指導層に教えを説いた。門人には神官・名主・豪農層が多く、学問に裏づけられた農業振興の具体策は各村々へ浸透していった。一方、尾張(おわり)の武家の出身で各地を放浪のすえ香取郡長部(ながべ)村(現、旭(あさひ)市)に落ち着いた大原幽学(ゆうがく)は、二宮尊徳(そんとく)と並ぶ農村指導者であった。先祖株組合を結成し、稲の植え付け、収穫法に関する農業技術の改良や土地の交換分合を行って農業生産性を高めた。

 佐倉藩学は明治時代にも継承され、佐倉支藩の佐野藩執政だった西村茂樹(しげき)は、維新後明六(めいろく)社に参加して啓蒙(けいもう)思想を説くとともに『古事類苑(こじるいえん)』を編纂(へんさん)、佐倉藩士津田仙(せん)の次女津田梅子は7歳でアメリカへ留学して帰国後津田塾を開き、佐藤泰然の養子佐藤尚中(しょうちゅう)は東京に順天堂病院を開設した。茂原出身の白鳥庫吉(しらとりくらきち)はわが国東洋史学の基礎を築き、市川の坪井玄道(つぼいかねみち)は体育教育に力を注いだ。文学では現在の山武(さんむ)市に生まれたアララギ派の歌人伊藤左千夫(さちお)がおり、小説『野菊の墓』でも知られる。名作『武蔵野(むさしの)』の作者、明治の文豪国木田独歩(くにきだどっぽ)も銚子(ちょうし)の出身である。

 1874年(明治7)千葉師範学校(現、千葉大学教育学部)が発足し教員養成が軌道にのったが、初代県令柴原和(しばはらやわら)の積極的な取り組みがあって公立小学校が普及した。大正デモクラシーの最中、1919年(大正8)師範学校付属小学校主事となった手塚岸衛(きしえ)の指導のもとで教育の理念を追求した自由教育が展開されたことは特筆される(のち手塚は東京・目黒に自由ヶ丘学園を創設)。そのほかに明治時代にすでに千葉大学医学部や園芸学部の前身校が開校されており、高等教育機関が充実してきた。また千葉市美浜(みはま)区若葉にはユニークな放送大学が開学されている。2012年(平成24)時点で、9学部からなる国立総合大学の千葉大学をはじめ、県立保健医療大学、県下各地に私立大学37、放送大学1、公立短大2、私立短大11、国立高等専門学校1がある。また柏(かしわ)には気象大学校がある。新聞は、地方日刊紙として、かつての千葉新聞社が解散した1956年、新たに千葉日報社が設立され、翌1957年1月1日から『千葉日報』を発行、唯一の県紙として親しまれている。他に稲毛新聞社、房州日日新聞社がある。テレビ放送は、千葉テレビ放送(UHF局)が1970年設立され、翌1971年から本放送を開始、県民の評価を高めているほか、県下全域で在京キー局の視聴が可能である。ほかにFMサウンド千葉、市川エフエム放送、エフエム浦安、木更津コミュニティ放送、木更津エフエムがある。

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生活文化

周囲を海と川で境された千葉県では、その暮らしと住まいも当然ながら、海と川に面する地域と内陸の丘陵・台地上では違いがみられ、今日に引き継がれている。九十九里浜では江戸時代に入って黒潮に乗って東漸してきた紀州人によってイワシ地引網が伝えられ、干鰯(ほしか)や〆粕(しめかす)を生産する商品経済に巻き込まれた海浜の村々の姿が浮かび上がる。九十九里平野で水田を耕していた農民は浜へ出て漁具をしまう納屋をつくり、豊漁期にはそこへ定住して納屋集落を形成するほどになり、浜には一面にイワシが干されていた。明治以後に沖合いでイワシを漁獲する揚繰(あぐり)網漁法が開発されたので、砂浜の漁船を押し出したり引き揚げるために「おっぺし」とよばれる村人が総出で作業することになり、重労働のなかにも地域連帯感が醸成されていった。しかし現在、イワシ漁の不振や掘込み式港湾が建設されてこうした風景はみられなくなり、観光用に地引網が引かれるにすぎない。南房総の白浜(南房総市)、御宿(おんじゅく)の磯浜(いそはま)には海女がいて伝統的な素潜り漁を続けている。また沖合いでカジキマグロを捕獲する突き棒も勝浦、千倉(ちくら)(南房総市)に伝えられた。東京湾岸ではかつてのりと貝の養殖が地域の暮らしを特色づけており、のりの天日乾燥風景や浦安市境(さかい)川に並ぶベカ舟が季節感を味わわせてくれたが、大半の漁場は埋め立てられて工業地域や住宅地となった。利根川下流の水郷(すいごう)地域では低湿地のために水路が縦横に引かれ、農作業のみならず日常生活での交通路として使用され、花嫁道中もこの水路を通った。田舟に役牛を乗せたり、腰までつかって田植をしていた水郷農村の生活も、いまでは干拓と耕地整理によって一変した。民家も水害を防ぐために水塚(みづか)とよばれる土盛りをした微高地に建てられ、揚げ舟をもつことが多かったが、これらの集落景観もしだいに消滅しつつある。

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民俗芸能

千葉県を代表する民俗芸能としては、まず国の重要無形民俗文化財に指定されている鬼来迎(きらいごう)がある。九十九里平野にある横芝光(よこしばひかり)町広済(こうさい)寺で毎年7月16日の施餓鬼(せがき)の法会後に演じられる仏教劇で、鬼舞(おにまい)ともよばれる。一方、印旛(いんば)沼の水害が多かった印西(いんざい)市には、農村生活の苦しみを救うために念仏を唱え踊った六座念仏踊り(ろくざねんぶつおどり)が伝えられている。同種のものに旭(あさひ)市飯岡(いいおか)の通称芋(いも)念仏といわれる念仏踊りがあり、民衆に根ざした信仰生活の一端がうかがわれる。南房総(みなみぼうそう)市の白間津のオオマチ(大祭)行事(しらまづのおおまちぎょうじ)(国指定重要無形民俗文化財)は、日枝(ひえ)神社に伝わる海辺の大祭で5年ごとに、祭神の大山咋命(おおやまくいのみこと)が海浜の来島(くるしま)に現れた日にちなみ、旧6月14~16日(現在は7月の第4金・土・日)の3日間に行われる。とくにササラ踊りは、花笠(はながさ)をかぶった浴衣(ゆかた)姿の少女たちが念仏踊り風に踊るもので特筆されるが、そのほかに豊凶を占う大網渡しの行事も催される。祭囃子(ばやし)としては、香取(かとり)市佐原(さわら)の八坂神社と諏訪(すわ)神社の例祭で引き回される山車(だし)の上で芸座連によって演奏される佐原囃子が著名であり、利根川筋と九十九里平野北部に伝播(でんぱ)している。佐原の山車行事は国指定重要無形民俗文化財で、2016年にユネスコの無形文化遺産に登録された。千葉市稲毛区稲毛浅間(せんげん)神社の神楽(かぐら)は、16世紀初頭に起源があるという古いもので、旧家の長男を中心として伝承され、7月15日の例祭のときに舞われる。そのほかに一宮(いちのみや)町玉前(たまさき)神社の上総神楽(かずさかぐら)は五軒の社家に伝えられていて由緒があり、君津市の大戸見神楽(おおとみかぐら)は稲荷(いなり)神社の祭礼に獅子頭(ししがしら)に胴体をつけた二人立ちの獅子が舞う。獅子舞は県下各地に伝承・保存されているが、印西市鳥見神社の獅子舞は、室町時代ころより悪魔払い、豊作祈願のために氏子一同が種播(たねま)きが終わったあとに社前で舞ったといわれ、現在も4月28日のオコトの日に親獅子(ジジ)・子獅子(セナ)・女獅子(カカ)の三匹獅子で舞われる。君津市鹿野(かのう)山白鳥(しらとり)神社のはしご獅子舞は四国の木こりが伝えたといい、4月の祭礼に高さ五間一尺の梯子(はしご)の上で二人立ち獅子が曲芸的に演じる特異なものであり、同種の東金(とうがね)市北之幸谷(きたのこうや)のそれは2匹の獅子によって舞われるが、いずれも貴重な無形民俗文化財である。

 郷土の祭りには、香取神宮の御田植(おたうえ)祭や、12年ごとの午(うま)年4月14~15日に盛大に開かれる神幸祭(軍神祭)がある。とくに後者は、近在の村々の氏子たちによって神輿(みこし)が御座船に運ばれて利根川をさかのぼり、鹿島(かしま)神宮、小御門(こみかど)神社の迎え船とともに水上祭を行ったのち、香取市佐原の諏訪神社、八坂神社へ至り翌日帰還するもので、典雅な儀式が繰り広げられる。そのほかに九十九里浜の海岸を神輿を担いで疾走する玉前神社の裸祭(9月13日)、田の中で泥をかけ合う四街道(よつかいどう)市和良比(わらび)の皇産霊(みむすび)神社の裸祭(2月25日)など各地に多彩な祭りが知られる。

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文化財

国宝の指定を受けた貴重な文化財は、香取(かとり)市香取神宮の海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)、市川市法華経寺の『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』、香取市の伊能忠敬記念館所蔵の伊能忠敬関係資料がある。鏡は海馬(かいま)葡萄鏡ともいわれ、正倉院宝物と同寸同形で唐代の鳥獣文様を配したりっぱなものであり、国の重要文化財の古瀬戸黄釉狛犬(ゆうこまいぬ)、双竜鏡とともに宝物殿に展示されている。『立正安国論』は日蓮上人が鎌倉幕府の執権北条時頼(ときより)に建白した漢文の真筆であり、『観心本尊抄』は佐渡の配流所で書かれた日蓮宗最高の教典となっている。

 国の重要文化財のうち建造物としては、県下で最初に指定された四方懸(しほうかけ)造の長南(ちょうなん)町笠森寺(かさもりじ)観音堂があげられるほか、法華経寺の五重塔、法華堂、四足門や成田山新勝寺(しんしょうじ)の光明(こうみょう)堂、釈迦(しゃか)堂、三重塔などが境内に配置されている。室町時代の建築様式をいまに伝える茅葺(かやぶ)きの君津(きみつ)市神野寺(じんやじ)表門、成田(なりた)市龍正院(りゅうしょういん)仁王門、市原市西願(さいがん)寺阿弥陀(あみだ)堂、印西(いんざい)市栄福寺薬師堂、印西市宝珠院観音堂や、浪切(なみき)り不動の別称で漁民の信仰が厚いいすみ市大聖寺(だいしょうじ)不動堂などが各地に残されている。社殿では1700年(元禄13)徳川綱吉(つなよし)が再建した豪壮な檜皮葺(ひわだぶ)きの香取神宮本殿や、室町末期の和様神社建築様式をよく伝える入母屋(いりもや)造の市原市飯香岡八幡宮(いいがおかはちまんぐう)本殿が知られる。彫刻では、平安時代藤原後期の作で関東の定朝(じょうちょう)様式の典型である銚子(ちょうし)市常燈(じょうとう)寺の木造薬師如来坐像(にょらいざぞう)や、鎌倉時代の遺風を伝える新勝寺の木造不動明王および二童子像、長柄(ながら)町飯尾(いいお)寺の木造不動明王坐像があり、松戸市万満寺(まんまんじ)の木造金剛力士立像は室町時代の力士像の代表作といわれる。絵画では、鎌倉後期作の「絹本著色日蓮上人像」(浄光院)がある。民家のうち野田市に移築・復原された花野井家住宅は近世期幕府直轄の小金牧で牧士を勤めた家であり、17世紀後半の寄棟茅葺きの建築である。白井(しろい)市滝田家住宅も同時代・同様式の名主の家で、北総地域を代表する民家である。

 現在生き続けている伝統工芸品には、銚子の大漁旗や縮(ちぢみ)、館山(たてやま)の房州団扇(うちわ)、柏(かしわ)の素朴な下絵首人形、久留里(くるり)の雨城楊枝(うじょうようじ)などがあって、細々と受け継がれており、その保護育成が望まれている。房州団扇は国の伝統的工芸品に指定されている。

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観光

千葉県は自然・人文観光資源に恵まれ、しかも大観光市場の東京に近接しているので、観光立地条件は優れている。しかし宿泊基地となる温泉地に欠けるために、従来、海水浴や社寺参詣(さんけい)、遊園地訪問の日帰り客中心の観光レクリエーションが大半を占めていた。交通条件が改善されるにつれて、観光客の志向性の変化に伴い、観光資本の投下も活発となり、南房総国定公園の御宿(おんじゅく)、勝浦、天津小湊(あまつこみなと)、鴨川(かもがわ)、白浜などでは大規模な遊園施設や宿泊施設が開発された。鴨川シーワールド、太海(ふとみ)フラワーセンター、白浜フラワーパーク、南房パラダイスなどの動植物を中心としたレジャーランドや、日蓮上人ゆかりの誕生寺と特別天然記念物の「鯛の浦タイ生息地(たいのうらたいせいそくち)」がある天津小湊、鴨川東条海岸、白浜野島崎灯台付近のホテル・旅館の発展、充実は著しいものがある。勝浦には海中展望塔をもつ勝浦海域公園がある。一方、内房・外房海岸では昭和初期ころから海水浴場、臨海学校が開設されて貸家・貸間が発達したが、その後、九十九里浜とともに民宿が急速に増加し、夏季を中心に季節性が強いとはいえ地域経済に大きくプラスとなっている。水郷筑波国定公園(すいごうつくばこくていこうえん)の拠点は利根川河口の銚子(ちょうし)と水郷の佐原であり、水郷では6月のアヤメのシーズンには農家の経営する観光田舟が水路を往来してにぎわう。県央部の市原市にはゴルフ場が集中し特異な景観を呈している。また、浦安には1983年東京ディズニーランド、2001年には東京ディズニーシーが建設され、人気を集めている。

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伝説

市川市真間(まま)山の手児奈(てこな)堂は、伝説上の処女(おとめ)「手児奈」の霊を祀(まつ)る祠(ほこら)である。この伝説は『万葉集』の高橋虫麻呂(むしまろ)らの歌によるが、霊堂の近くには入水(じゅすい)して死んだ処女の墓、真間の井などがある。真間山に連なる鴻ノ台(こうのだい)(国府台)は里見(さとみ)氏の城があった所。城主里見弘次(ひろつぐ)(?―1564)が戦死したあと、姫は去ることができずに泣き暮らして死んだ。いまも残る「夜泣き石」のあたりから、夜更けに泣き声が聞こえたという。天慶(てんぎょう)の乱(939)の平将門(まさかど)の父、良将(よしまさ)が本拠にしていた佐倉には、将門伝説が根づいている。その事跡は『将門記(しょうもんき)』に詳しいが、それらは多分に伝説化されて将門信仰のもとになっている。「七天王塚」(千葉市)は、将門の影武者の墓と伝えられる。将門の分身となって出没して敵の目をくらませたという。七つ塚の「七」の数字は、将門が信奉した妙見(みょうけん)(北斗七星)信仰にかかわりがあるとみられる。

 貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)も伝わっており、まず大友皇子(弘文天皇)をあげねばなるまい。壬申(じんしん)の乱(672)で敗れた皇子は、妃の十市(とおち)姫(?―678)を連れて小櫃(おびつ)(君津(きみつ)市)に逃れてきた。臨月に近い姫は皇子と別れ山中に隠れたが、極度の疲労で筒森(つつもり)の山小屋で早産した。そのため母子ともに亡くなった。皇子も追討軍に敗れて御腹(おはら)川で自害を遂げた。君津市俵田(たわらだ)は仮御所の跡であるという。また、同市貞元(さだもと)の「親王屋敷」は、清和(せいわ)天皇の第三皇子貞元親王(?―909)がゆえあって漂泊し、この地で薄幸の生涯を送ったと伝えている。その周辺には墓所・遺跡が多い。

 日蓮の生家は安房(あわ)郡小湊(こみなと)(現、鴨川市)の浦であるが、そのあたりは地震や津波で流失し、現在の誕生寺は三たび移したものという。笠森(かさもり)寺観音堂(長生(ちょうせい)郡長南(ちょうなん)町)は、桐壺(きりつぼ)の女御(にょうご)が発願して建てた寺と伝えている。後一条(ごいちじょう)天皇が女御にふさわしい女性を全国に求めたとき、この里の娘が選ばれた。桐壺の名を賜ったのは、観音の利益によるといわれている。佐倉惣五郎(そうごろう)は『地蔵堂通夜(つや)物語』『佐倉義民伝』などで世に知られている義民で、佐倉藩の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)を直訴したかどで1653年(承応2)に刑死したと伝えられる(1644年説もある)。その怨霊(おんりょう)を恐れて、慰霊のために宗吾(そうご)霊堂(成田市)を建てて祀ったといわれる。

[武田静澄]

〔東日本大震災〕2011年(平成23)の東日本大震災では津波被害の大きかった旭市を中心に県全体では死者22人・行方不明2人、住家全壊801棟・半壊1万0154棟を数えている(消防庁災害対策本部「平成23年東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)について(第159報)」平成31年3月8日)。

[編集部 2019年10月18日]

『『千葉県史』全2冊(1962、1967・千葉県)』『小笠原長和・川村優著『千葉県の歴史』(1971・山川出版社)』『千葉日報社編『房総の史実と伝説』(1973・昭和書院)』『荒川法勝編『房総の伝説』(1975・暁書房)』『千葉県教育委員会編『千葉県の文化財』(1980/改訂増補版・1990・千葉県)』『『千葉大百科事典』(1982・千葉日報社)』『菊地利夫著『房総半島』(1982・大明堂)』『菊地利夫編『千葉県の自然と社会 空中写真集』(1982・日本地図センター)』『『角川日本地名大辞典12 千葉県』(1984・角川書店)』『千葉県高等学校教育研究会編『新版 千葉県の歴史散歩』(1989・山川出版社)』『小笠原長和監修『日本歴史地名大系12 千葉県の地名』(1996・平凡社)』『『千葉県の歴史 別編 地誌1 総論』(1996・千葉県)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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