南有馬(読み)みなみありま

日本大百科全書(ニッポニカ) 「南有馬」の意味・わかりやすい解説

南有馬
みなみありま

長崎県島原(しまばら)半島の南部、南高来(みなみたかき)郡にあった旧町名(南有馬町(ちょう))。現在は南島原市(みなみしまばらし)の南西部を占める。旧南有馬町は1932年(昭和7)町制施行。2006年(平成18)北有馬、加津佐(かづさ)、口之津(くちのつ)、有家(ありえ)、西有家布津(ふつ)、深江(ふかえ)の7町と合併、市制施行して南島原市となった。旧町域の東部、有明(ありあけ)海に臨む標高20余メートルの丘陵は、かつて「原の島(はるのしま)」とよばれる孤島であった。1496年(明応5)有馬氏によって築城されたが廃城となっていた。1637年(寛永14)島原・天草一揆(しまばらあまくさいっき)勃発後、天草四郎時貞(あまくさしろうときさだ)とキリシタン3万7000余人がこの廃城に立てこもった。この原城跡(はらじょうあと)は面積44ヘクタールで、本丸・二の丸・三の丸・天草(あまくさ)丸に分かれた天然の要塞(ようさい)であった。原城の西側の、かつて入り江であった大江(おおえ)は、現在では陸化され、地域の中心地をなしている。国道251号、389号が通じる。西部は標高200メートル内外の丘陵地で、山腹斜面には棚田(たなだ)やミカン園が多い。1966年(昭和41)北部の有馬川河口一帯浦田(うらた)・北岡(きたおか)の地先〕に、100余ヘクタールの干拓地が造成され、米の生産は急増した。国史跡原城跡には供養地蔵尊や顕彰碑が立てられ、近くに温泉施設があり、毎年4月には本丸跡で原城一揆まつりが行われ、多くの観光客を誘致している。

[石井泰義]

〔世界遺産の登録〕原城跡は、2018年(平成30)、ユネスコ(国連教育科学文化機関)により「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産として、世界遺産の文化遺産に登録された(世界文化遺産)。

[編集部 2018年9月19日]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「南有馬」の意味・わかりやすい解説

南有馬
みなみありま

長崎県南東部,南島原市南部の旧町域。島原半島の南部,島原湾に臨む。1932年町制施行。2006年加津佐町,口之津町,北有馬町,西有家町,有家町,布津町,深江町と合体して南島原市となった。おもに雲仙岳南部の玄武岩からなる丘陵地で,沿岸にわずかな沖積低地があり,有馬川,大手川の河口には干拓水田がある。丘陵地ではミカン,ジャガイモを産する。漁業はワカメの養殖が行なわれる。島原の乱の主戦地として知られる原城跡(国指定史跡。2018世界遺産の文化遺産に登録)があり,付近に原城温泉や国民宿舎などがある。毎年 4月に催される本丸跡での原城一揆まつりは有名。一帯は島原半島県立自然公園に属する。

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改訂新版 世界大百科事典 「南有馬」の意味・わかりやすい解説

南有馬 (みなみありま)

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