精選版 日本国語大辞典 「南浦紹明」の意味・読み・例文・類語
なんぽ‐しょうみょう ‥セウミャウ【南浦紹明】
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鎌倉時代の臨済宗の僧。〈じょうみょう〉ともいう。駿河の人。幼時郷里の建穂寺に入り,のち鎌倉建長寺の蘭渓道隆の門に入った。正元(1259-60)のころ入宋,各地の名刹を歴訪,ついに当時中国禅宗界の高峰だった虚堂に師事してその印可を得,1267年(文永4)帰国した。70年筑紫の興徳寺住持,72年に太宰府の崇福寺住持となって,以後30余年間,九州各地の道俗に禅風を高揚した。1305年(嘉元3)伏見上皇の招きによって上洛,京都五山の万寿寺に住持し,公家社会で禅要を説いた。07年(徳治2)北条貞時の招きで鎌倉に移り,やがて建長寺の住持となって,ここで入滅した。勅諡(ちよくし)して〈円通大応国師〉という。その禅風は大応禅と呼ばれて,名利を避け,枯淡にして峻厳な修行で知られ,のち一休が私淑して,一休禅の形成に大きな影響を与えた。著書に《大応国師語録》3巻がある。
執筆者:藤井 学
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(竹貫元勝)
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…育王山広利寺,南山浄慈報恩寺,径山興聖万寿寺など五山の大寺に住した当代きっての禅僧である。日本から入宋した多くの禅僧も彼に参じたが,とりわけ南浦紹明(なんぽしようみよう)はその法を継いで帰朝し,大徳寺,妙心寺両派によってその法脈を今に伝えている。茶道が大徳寺派の禅と密接な関係をもって発展すると,虚堂の墨跡は禅家はもとより茶の世界でも特に愛玩珍重された。…
…通称は一休寺。寺伝によれば,鎌倉後期,大応国師南浦紹明(なんぽしようみよう)がこの地に創建した妙勝寺にはじまる。そののち,大徳寺に育ちながら深く大応禅に私淑していた一休宗純が,妙勝寺の荒廃を嘆いて復興につとめ,1456年(康正2)堂宇を落成,かたわらに大応の恩に酬(むく)いようと,その画像をまつって〈酬恩庵〉と名付けた庵を結んだ。…
…日本の禅宗は,それらをあわせて受容するのであり,独自の近世禅文化を開くこととなる。 日本の臨済宗は,鎌倉時代の初めに明庵栄西が入宋して,五家七宗のうちの黄竜宗を伝え,《興禅護国論》を著して,旧仏教との調和をはかりつつ,鎌倉幕府の帰依で京都に建仁寺を開くのに始まり,同じく鎌倉幕府が招いた蘭渓道隆や無学祖元などの来朝僧と,藤原氏の帰依で京都に東福寺をひらく弁円や,これにつぐ南浦紹明(なんぽしようみよう)(1235‐1308)などの入宋僧の活動によって,短期間に鎌倉と京都に定着し,やがて室町より江戸時代にその後継者が,各地大名の帰依で全国に広がるものの,先にいう四十八伝二十四流の大半が,栄西と道元その他の少数を除いてすべて臨済宗楊岐派に属する。臨済禅は,唐末の禅僧,臨済義玄(?‐866)を宗祖とし,その言行を集める《臨済録》をよりどころとするが,日本臨済禅はむしろ宋代の楊岐派による再編のあとをうけ,とくに公案とよばれる禅問答の参究を修行方法とするので,おのずから中国の文学や風俗習慣に親しむ傾向にあり,これが日本独自の禅文化を生むことになり,五山文学とよばれるはばひろい中国学や,禅院の建築,庭園の造型をはじめ,水墨,絵画,墨跡,工芸の生産のほか,それらを使用する日常生活の特殊な儀礼を生む。…
※「南浦紹明」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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