目次 歴史 源流 世界最古の印刷物 中国における黄金時代 朝鮮・日本の印刷 ヨーロッパへの伝播 活版印刷の誕生 各種印刷方式 文字の印刷と写真や絵画の印刷 簡易印刷と特殊印刷 新しい技術的動向 日本の印刷業 沿革 現状と特色 印刷は文書,絵画,写真などの平面的な画像を多数複製する手段であるが,現在ではその技術は多種多様となり,印刷とは何かを定義することは困難である。
歴史 源流 ふつう印刷術は中国に始まったと考えられており,その場合の印刷術は木版に文字を彫りそれに墨を塗り,上から紙をあて〈バレン 〉のようなもので文字を刷りとる方法が行われたのである。現在広く行われている活字印刷に対し,これを〈整版〉と呼んでいる。こうした印刷は唐代(618-907)に始まったと思われるが,しかしそれ以前から印刷類似の方法が中国やオリエントで行われていた。捺印や〈摺拓〉がそれである。ことに捺印の歴史は古く,オリエントでは前3000年以上もさかのぼるものがあり,主として封印 に使われた。中国では漢以前から銅その他の金属を鋳造した印が多く使用され,封印にも使用されたことはあるが,代表的なものは官職印であった。官職に就くことを〈印綬を帯びる〉というが,任官すると官職名を鋳(い)こんだ印を皇帝から授けられ,これを身体につけたのである。福岡県で出土した有名な〈漢委奴国王印〉は黄金製である。もちろん私印の類も多く作られ,紙の発明以後は直接紙に捺印されたが,現行のように朱肉を使用するのは六朝時代になってからであろう。なお宋代のころから印材に玉石の類が使用された。
大きな石に文字を刻みそれから拓本 をとる〈摺拓〉もまた印刷類似の作業である。後漢の時代から儒教経典の正確性と恒久性を保持するため,石碑に経典を彫ることがしばしば行われた。その初期の有名なものが〈熹平石刻〉である。175年(後漢の熹平4)に蔡邕 (さいよう)が皇帝の命を受けて《六経》の校訂を命ぜられた。蔡邕は校定したテキストをみずから清書し,それを石碑に彫らせた。この石碑は太学の門外に立てられたが,それを写しとろうとする人々で混雑したということが《後漢書》蔡邕伝にみえる。ここにいう〈摹写(もしや)〉はおそらく〈摺拓〉を意味するのであろう。〈摺拓〉は水で湿らせた紙を碑面に密着させ,パッドに墨を塗って軽く紙面を打ち,碑文を写しとるのである。日本では紙を湿らさずに〈釣鐘墨〉を塗る〈乾拓〉の方法が行われる。
後漢末には道教が起こる。これはのちに道教教団の成立に発展し,道教徒のあいだでは特殊な文様を捺印した護符 の類が多く作られるようになった。こうした護符を帯びると身に災害が及ばないという。仏教が伝わってくると,仏教徒のあいだでも同じようなことが行われたが,仏教では特に供養のため〈印仏 〉を作ることが行われた。これは小さな仏像をいくつも1枚の紙に捺印するのである。道教や仏教が隆盛となるにつれ,この種の複製品の需要は高まり,捺印からやがて木版印刷へと発展するようになった。このように宗教活動は印刷術の発展に大きな影響を及ぼしたのである。同じく捺印といっても,護符や〈印仏〉は官職印などとはちがい,かなり大きなものであった。したがって板に文様を彫って紙に捺印したものと思われる。この方法はやがて絹布類に施されるようになった。こうした〈プリント〉技術もまた印刷術の源流と考えられる。
世界最古の印刷物 捺印では大きな紙面に文字その他を写しとることが困難なため,版木を下にして墨を塗り上から紙をあてて写しとる印刷術が考案されたのであって,捺印と印刷とはさほど本質的な変化はみられない。したがって捺印から印刷への移行は,唐代の人々にとってまったく新しい技術の発明とは意識されなかったであろう。こうした印刷術の登場が唐代のいつごろかということは明確でない。しかし印刷物の最古のものとして日本に残る〈百万塔 陀羅尼(だらに)〉と呼ばれるものがある。陀羅尼は梵語dhāraṇīの音訳で,仏教経典の呪文を意味する。奈良朝の称徳女帝は764年(天平宝字8)の恵美押勝の乱の平定後に発願して高さ4寸5分の木製小三重塔百万個を造り,その中に《無垢浄光大陀羅尼経》からの〈陀羅尼〉を印刷したものを収め,奈良を中心とした十大寺に寄進した。この〈陀羅尼〉には4種類があるが,その1枚が小塔に収められた。この仕事は770年(宝亀1)に完了したことが《続日本紀》に記録されている。これが印刷物の最古のものと考えられてきた。幅はほぼ5.4cm,長さは種類によってちがい,15~50cmほどである。しかし〈百万塔陀羅尼〉については,原版が銅版か木版かといった議論があるほか,ことに重要な問題は,捺印によるもので真正な印刷物でないとする説があることである。しかしここでは通説に従い,版木の上に紙をあてて刷った印刷物であるとしておく。
この〈百万塔陀羅尼〉は日本で印刷されたものであるが,中国文化圏の一つであった日本の状況からみて,おそらく中国ではさらに古くから印刷が行われたと考えるのが妥当である。しかし中国には770年をさかのぼる印刷物は残っていない。ところが1966年に韓国慶州の仏国寺 の境内にある釈迦塔の塔頂部がこわれ,その中から《無垢浄光大陀羅尼経》の全文を印刷したものが発見された。これは〈百万塔陀羅尼〉に比べてはるかに長文のもので,紙の大きさは幅6.65cm,長さ6.3mに及ぶものであった。ところで仏国寺自体は新羅の法興王の15年(528)に創建されたが,のちに景徳王の10年(951)に修理が施され,その時に問題の釈迦塔が建てられた。したがって経典はそれ以前に印刷されていた。このことは経典にみえる則天文字からも立証される。則天武后 は高宗が683年に亡くなったあと一時唐王朝を 奪した女傑であり,天地日月など17字ほどの新文字を作った。これが則天文字である。新文字は690年ごろに作られ,武后の亡くなった705年までは盛んに使用された。しかし武后死後にもしばらく使用がつづいたと思われる。ところで《無垢浄光大陀羅尼経》自体の成立は704年ごろであり,これがまもなく新羅に伝わり,この地で印刷された。こうしてみると,韓国人学者が主張するように,この経典の印刷は8世紀前半のことであり,〈百万塔陀羅尼〉の印刷より古く,これこそ現存世界最古の印刷物であるといえよう。
中国に現存する最古の印刷物はスタインA.Steinが1907年に敦煌で発見した,868年(咸通9)4月15日に王玠なる人物が両親の供養のために布施した《金剛般若波羅蜜経 》である。全体は幅30cm,長さ5m以上に及ぶもので,長さ80cmほどの紙をつなぎ合わせている。さらにこれにつづくものとしては877年(乾符4)のものと断定できる暦書である。いずれにしても初期における印刷物は,宗教経典や日常使用する暦書の類であった。
中国における黄金時代 907年に唐は滅び,〈五代〉の分裂時代を迎えた。この〈五代〉の時代に,後唐から後周まで4王朝10人の皇帝の下で宰相となった馮道 (ふうどう)は,唐末の混乱期に主として四川を中心として盛んに行われた印刷術の仕事を受けつぎ,儒教の経典を校訂し印刷することをはじめて行った。4王朝に仕えた馮道は無節操な人物として後世から非難されるが,中国の印刷術史上きわめて注目される人物である。〈五代〉につづく宋代(960-1279)は中国における印刷術の黄金時代で,儒教経典をはじめ,あらゆる分野の書物が印刷された。972-983年にわたって5048巻にのぼる《大蔵経 》が四川省の成都で印刷された。印刷物自体も立派なもので,現存する宋版は芸術作品として珍重される。中央政府や地方官庁からの印刷物のほか,私工業としての印刷業が成立するようになった。また紙幣の先駆とされる〈交子 〉の印刷が始まるのも宋代からである。
木版印刷が盛行した宋代にはじめて活字 印刷の発明が加わった。沈括(しんかつ)の《夢渓筆談》によると,その発明者は畢昇(ひつしよう)と呼ぶ工人であった。当時の活字は泥土をにかわで固めて文字を彫り,そのあとで焼いた,いわゆる〈膠泥(こうでい)活字〉である。印刷にあたっては,鉄板に蠟を流して温めながら活字を並べ,並べ終わると鉄板を火より下ろして冷却させる。蠟で活字が固定されるのを待ち,そのあとは木版印刷と同じように,墨を塗り上から紙をあてて文字を写しとるのである。現在の〈プレス〉とはまったくちがった方法であった。その後,木や金属を材料とする活字が考案された。金属活字の場合は油性インキの使用が必須となる。1313年の元の時代に,王禎が著した《農書》の中で,木活字を使用してみずからの著書を印刷したことを述べている。この《農書》の中で特に注目されるのは,活字を配列する回転活字台に言及していることである。文選工は動きまわることなしに必要な活字を容易に捜し出すことができた。
中国の印刷は木版が中心であり,活字印刷は主として私人の手で稀に行われるにすぎなかった。しかし清朝の康煕時代に,来朝していたイエズス会士の指導によって銅活字が作られ,これによって《古今図書集成 》など大部の印刷物が政府の手で刊行された。しかしその後まもなくこれらの銅活字は地金として流用されてしだいに失われたため,乾隆帝の時代には多数の木活字が作られ,《武英殿聚珍版叢書 》などが印刷された。〈聚珍版〉は活字印刷を意味する。この叢書の刊行にあたって,木活字の製作および印刷の工程を述べたものに,金簡の《欽定武英殿聚珍版程式》がある。中国でなぜに活字印刷が流行しなかったかの理由は明白でない。漢字の数が多く,したがって活字も多く備える必要があったことが一つの原因と考えられる。しかし同じく漢字を使用した朝鮮において活字が広く使用されたことを考えると,これだけが原因のすべてではない。やはり伝統をとうとぶ保守的な風潮が支配的であった中国では,古来の木版が重要視されつづけたのであろう。
朝鮮・日本の印刷 8世紀前半にすでに仏教経典を印刷していた朝鮮は,印刷術の先進国であった。特に注目すべき点は銅活字による印刷が盛んに行われたことで,この点で木版が中心であった中国とまったく対蹠的であった。朝鮮の活字印刷本で現存する最古のものは高麗時代の仏典(1377)であり,これは銅活字と木活字とを併用している。しかし銅活字の鋳造が盛んとなったのは李朝時代からである。《李朝実録 》によると,太宗3年(1403)に太宗は朝鮮に書物の少ないことを遺憾とし,書物を印刷するため数ヵ月のあいだに数百万個の活字を鋳造させたという。この活字で印刷した《十一家註孫子》の一部が現存する。その後もしばしば新鋳活字を作る勅命が出され,有名な書家が動員されて活字の手本を書いた。第2回の新鋳は1420年に行われ,その年の干支にちなんで〈庚子字〉と呼ばれた。これは小型であったが,34年には大型の〈甲寅字〉が鋳造された。36年(〈丙辰字〉),50年(〈庚午字〉),55年(〈乙亥字〉),65年(〈乙酉字〉)などに新鋳が行われ,最後には84年に〈甲辰字〉が鋳造された。世宗(在位1419-50)の時代には表音文字〈ハングル 〉が考案されたが,しかし〈ハングル〉用の活字は作られなかった。
日本では770年の〈百万塔陀羅尼〉から300年ほどは印刷の記録はなく,現存する印刷物もない。11世紀半ばごろから仏典を中心に印刷が行われるようになったが,ことに奈良興福寺で印刷された〈春日版 〉が有名である。平安朝末期から鎌倉時代にかけ,興福寺をはじめとし奈良の諸大寺で盛んに印刷が行われた。やがて禅宗の伝来につれ,鎌倉の〈五山〉を中心とする〈五山版 〉の刊行が盛んとなった。このころになると,中国からはすぐれた宋版が輸入されたが,日本では仏典以外の書物を印刷することは,ごく稀であった。やがて室町時代になると1364年(正平19・貞治3)の《正平版論語》などの印刷が行われた。これは大坂堺の私人の手で行われたものである。豊臣秀吉は天下統一のあと朝鮮に遠征し,朝鮮の銅活字を日本に運んだ。その結果,銅活字やそれを模した木活字による印刷が行われるようになり,江戸時代の初期まで活字印刷が主流となった。一方,16世紀末から17世紀にかけ,九州を中心にヨーロッパ式の金属活字による,いわゆる〈キリシタン版 〉が行われた。このように一時期流行した活字印刷も17世紀前半で終わり,その後は再び木版印刷が復活した。木版では漢字とかなを組み合わせたり,漢字にルビを付けることも容易であり,また絵図を同時に挿しこむこともできた。しかし幕末になると再びヨーロッパの影響で活字印刷が行われるようになった。
ヨーロッパへの伝播 紙と印刷術はともに中国の発明であるが,このうち製紙術は唐代にイスラム諸国に伝わり,やがてヨーロッパに広まった。このように紙の場合は,伝播の経路や時期が明白であるが,印刷術の場合はきわめてあいまいである。上述したように複製品の需要が多い宗教活動と結びついて印刷術が始まっているのであるが,中国に隣接するイスラム諸国の聖典である《コーラン》は,代々写本として伝わり,これを印刷することは聖典の神聖さを汚すものとして長く禁止された。こうして中国とヨーロッパの橋渡しの位置にあったイスラム諸国は,印刷術に関する限り,その役割を果たすことがなかった。もちろんこうした通説に対し,これを反論する資料がまったくないわけではないが,まだ結論がでていない。
ヨーロッパに印刷術を紹介したのはマルコ・ポーロ であったという説がある。周知のようにイタリアのベネチアに生まれたこの人物は元の世祖フビライに仕えて親任があり,1292年に帰国したときに印刷された紙幣を持って帰り,これが契機となってイタリアで木版印刷が行われるようになったという。しかし彼が書き残した有名な《東方見聞録》には印刷術に関する記載はなく,この説は証拠に乏しく疑問視されている。マルコ・ポーロ以前からヨーロッパ人がモンゴル帝国 を訪れていた。1245年にプラノ・カルピニ が教皇の使者としてモンゴルに派遣されており,また53年にフランスのルイ9世の使者として派遣されたルブルク はモンゴルの主都カラコルムで何人かのヨーロッパ人に出会ったことを,彼の旅行記に書き残している。こうした旅行者が中国の印刷物を持ち帰る可能性があったことが推定される。マルコ・ポーロ以後になると,94年に大都北京に着いたモンテ・コルビノ は北京でのキリスト教伝道に成功し,1304年には大司教に昇格し,ローマから彼を助ける7人の司教が送られてきた。これらの宣教師たちは伝道のため聖典や図像を印刷しており,ヨーロッパに印刷術を伝える可能性があったことが考えられる。しかしこれもまた立証する証拠はない。
中国の印刷術に関する有名な著述を行ったカーターT.F.Carterは,ヨーロッパに印刷術が伝わった経路について,次のような推定を行っている。モンゴルは欧亜にまたがる大帝国を建てたが,モンゴルとヨーロッパが文化的に密接に接触した2ヵ所の都市があった。その1ヵ所はイル・ハーン国の主都であったペルシアのタブリーズ であった。ここではイタリアを中心としたヨーロッパ諸国とのあいだに公式な交渉があり,各国の代表部が置かれ,しばしば使節が派遣された。13世紀末のガイハートゥー・ハーンの時代に国庫が枯渇したため,漢文とアラビア文の紙幣が印刷されたことがあったが,これがイタリア諸国になんらかの影響を及ぼした可能性が考えられる。次に支配者となったガーザーン・ハーンの時代には,宰相ラシード・アッディーン が勅命を受けて世界史の編集に着手した。14世紀初頭に完成したこの《集史》には中国の木版印刷に言及している。この書物は写本として伝えられたが,中国以外の土地において印刷術にふれた最初の書物であった。
タブリーズと並んで印刷術のヨーロッパへの伝播を考える上で重要な地点は,モスクワの東にあるニジニ・ノブゴロドである。ここはモンゴル時代を通じて東アジアの物産の集散地であり,北部ヨーロッパとのあいだに貿易が行われていた。ここを通じても印刷術の伝播が考えられるが,この場合にも確証は得られていない。
14世紀のヨーロッパはイタリアを中心にルネサンス運動が興った。都市は繁栄し民衆の力が増大した。この土地で木版印刷が行われるようになった。初期の印刷物は,かるたの類を除くと,ほとんどすべてがキリスト教の図像類であった。宗教が多数の複製品を必要として印刷術を発展させたことは,この場合にも例外でなかった。古くから使用された羊皮紙に代わって,この時代には紙が普及していたが,印刷が紙に対して行われただけでなく,類似の技法を使って織物へのプリントも行われた。木版印刷は最初にベネチアを中心に行われたが,まもなく中央ヨーロッパに広がった。伝播の経路は不明であるが,ヨーロッパの木版印刷術が中国に起源を持つことは確実であろう。
活版印刷の誕生 ヨーロッパに活字印刷(活版印刷)が始まったのは15世紀半ばであるが,その最初の考案者が誰であったかについては異説がある。その中で有力なのはオランダ人コステルJ.Costerとドイツ人グーテンベルク J.Gutenbergをあげる説である。主としてオランダ人学者の説によると,コステルはすでに1423年ごろ活字印刷術を発明しており,グーテンベルクはその技術を盗んだというが,明確な点はまだ確かめられていない。一般的にはグーテンベルクが活字印刷の最初の発明者とされている。彼は1398年ころドイツのマインツに生まれ,1434年ころシュトラスブルクに移ったが,このころから活字印刷術の発明にとりつかれた。まず鋳型を作り,それに鉛を流しこんで鉛活字を鋳造した。次に油性インキの工夫に成功したほか,ブドウしぼり機にヒントを得てプレス式印刷機を考案した。中国にも早くから活字印刷が行われていたが,プレス式印刷機こそはグーテンベルクが最初に考案したものといえる。彼は48年ごろ郷里のマインツに帰り,55年ごろこの地で有名な《四十二行聖書》の印刷を行った。1ページは2段に分かれ,1段が42行であるところから,その名がある。グーテンベルクの晩年は不幸であったが,印刷技術はやがてドイツ国内に広まり,ことにニュルンベルクがその中心となった。この町のヨハン・オットーJ.Ottoは1515年から出版事業を始めるようになった。ドイツについで活字印刷が盛んとなったのはイタリアであり,やがてヨーロッパ全土に広まった。印刷術の流行はヨーロッパの知識水準を高め,近世への開幕に大きく貢献したことはいうまでもない。 →印刷工 執筆者:藪内 清
各種印刷方式 印刷の一般的な工程は,文字,絵画,写真などの忠実な版を作り(製版 ),版にインキをつけ,インキを紙に移すことである。したがって,製版が最も重要な役割を占め,版式のちがいによって使用する印刷機も異なる。基本的には凸版,平版,凹版,孔版の4種の版式があり,表にその特色を示す。
インキのつく部分を残して他の部分は彫りくぼめる形の版を凸版という。凸版は印刷の原理として明快であり,印章などにも用いられる。初期のころは木材面を彫る木版であったが,やがて木版にかわり金属凸版,それも彫刻でなく鋳造によって製造されたものが登場した。ついで,1445年ころ,ドイツのグーテンベルクは鉛,スズ,アンチモンの3元合金の鋳造活字を作り,またブドウしぼり機にヒントを得たプレスすなわち活版印刷機を製作して美麗な印刷物を多数後世に残した。ここで凸版印刷の大宗である活版印刷 の方法が確立し,500年にわたる文字印刷を築きあげた。
1798年,ドイツのA.ゼネフェルダーは,ゾルンホーフェン地方に産する大理石の1種を加工して凸版を作り楽譜印刷を試みたが,凸版形式にせずとも化学的な方法により印刷版を作ることを発明,石版印刷を完成した。多孔質である石の面に脂肪に感ずる画像部分を作り,同じ平面でありながら,脂肪性印刷インキのつくところとつかないところを作って印刷を行う平版版式である。石版石と名づけられたこの版材は,のち金属板に代えられて金属平版が登場した。
凸版形式と反対の凹版は,金属板の表面にきずをつけ,くぼんだところにインキをつめて紙に移す方法で,金属細工にその発祥をもとめることができる。すなわち銀の板あるいは金の板に絵模様を凹刻し,刻線に他の金属をすりこむ細工から,15世紀の中ごろイタリアのM.フィニグエラが彫刻凹版印刷を思いついたとされている。現在の凹版は彫刻とエッチング(食刻)の二つに大別されるが,さらに細かい技法が工夫され実用になっている。また,写真製版法および写真印画法と結びついてグラビア印刷 が発明された。1879年チェコのK.クリッチが散粉式写真凹版を考案したのにはじまり,現在のグラビア(ロトグラビア)に発展した。
孔版は,型染の原理と同じく,ステンシル(型紙)を枠に張りインキを押し出して型通りの模様を紙に移す方法である。謄写版 とシルクスクリーン印刷 がこれに属する。謄写版はアメリカのT.エジソンが19世紀末に発明したが,日本の堀井新治郎が蠟引き紙に鉄筆で穴あけする方法を発明して以来,事務印刷として重宝がられた。シルクスクリーン印刷は,友禅染の発達した技法があったにもかかわらず日本では低調であったが第2次世界大戦後,ぬりどめや写真製版によるステンシルの製法が輸入されて,さかんになった。 →凹版 →孔版 →凸版 →平版
文字の印刷と写真や絵画の印刷 印刷を文字の印刷とそれ以外の写真や絵画などの印刷とにわけてみると,文字は同じパターンがくりかえし使用されるので,活字や写真植字のように,あらかじめ製作し貯蔵しておいた印刷用文字を必要に応じ呼び出して使用する。この考えのもっとも古いものは活字 である。金属製活字は15世紀から5世紀にもわたって利用されてきたが,20世紀に入って写真術が進歩し,写真植字法が発明され,実用期に入った。文字の写真画像を製作・貯蔵しておき,必要に応じて感光物上に順次拡大あるいは縮小投影し,これを現像すれば文字像を得る。これを写真製版により,各種の版に作りあげる。この写真植字法から電算植字が発達した。初期のものは文字の写真画像を,さん孔テープの指令により選び出し,感光物に露出するものであった。エレクトロニクス技術が進むにしたがい,文字はドットに分解し貯蔵しておき,テープ指令によりブラウン管に呼び出し,編集・校正などの処理をしたのち感光物上に高速で出力する方法が普及した。このコンピューター機能を活用した文字組版方式は,組版の記憶,検索(必要項目のみとり出す),訂正などが迅速容易であるところから,とくに各種名簿類,辞書・事典類,新聞の組版に利用される。日本の漢字まじりかな文は使用文字数が多いのでこの種の装置の開発は欧米にくらべ遅れたが,新聞および一般組版に広く利用されるにいたった。
いっぽう,写真や絵の印刷は原稿に濃淡があって,凸版や平版のように版につけるインキの厚さが一様なものでは再現が困難であった。そこで考案されたのが網版法である。1890年アメリカのレビー兄弟Max Levy,Louis Levyが網目スクリーンの製作に成功して以来,広く実用化した。これは人間の目の分解能に限界があり,原稿の濃い部分は大きい点(網点という),淡い部分を小さな網点におきかえ,網点自体を小さくして印刷すると,人間の目には網点ではなく濃淡のある画像として映ずる。たとえば,図2-aの網目スクリーン(小さな網点のあるフィルム)を感光性フィルムと密着させて原稿を撮影すると,原稿の濃い部分は網目を通過する光量が少ないから小さな網点に,淡い部分は光量が多いから大きな網点になって感光性フィルムに感光する。これを網ネガティブという。網ネガティブを新しいフィルムに密着焼きすれば,原稿の濃い部分は大きな網点に,淡い部分は小さな網点となる。これを網ポジティブといい,網ポジティブをもとに凸版の版面を作ると図2-bのようになり,印刷すると図2-cのようになる。図は拡大したもので,実際の網目は1インチ(約2.5cm)当り凸版で100~120線,オフセットで100~200線くらいのものを使っており,印刷物は濃淡のある画像となる。凹版とくにグラビアの場合は,図2-dのような白線スクリーンを使って製版すると,版面のくぼみは図2-eのように原稿の白っぽいところは浅く,黒っぽいところは深くなる。これにインキをつけると,浅いところは少なく,深いところは多くつくので,紙に移すと濃淡の諧調が再現できる。
写真や絵画などの印刷ではカラー印刷(多色印刷)の需要が多い。印刷において色を作り出すのに用いられている原理は減法混色と呼ばれ,これは,シアン(青緑),マゼンタ(赤紫),イェロー(黄)のインキを適当な濃度で混ぜ合わせるとすべての色を再現できるというものである。具体的には原稿からそれぞれの色の成分をとり出し(これを三色分解,あるいは色分解という),それぞれの版を作って順次印刷を行えばよく,それぞれの色の成分の濃淡は,前述と同様網点等で表現する。色分解には,それぞれのインキの補色フィルターを通してカメラ撮影する方法,カラースキャナー を用いる方法がある。また,実際の印刷では,色の再現性をよくするため,上記の3色のほか,墨(黒)インキ用の版を作り,4色を刷り重ねており,さらに調子(トーン)を補うときには1色か2色補うこともある。 →写真植字機
簡易印刷と特殊印刷 素人でも手軽にできる簡単な印刷法を普通の印刷法と区別して簡易印刷または軽印刷というが,はっきりした区別はない。かつて多用された謄写版(孔版)印刷のほか,こんにゃく版,ゼラチン版などがこれに該当し,そして謄写版印刷から発達して,タイプ孔版,タイプオフセット,写真植字オフセットなどの製版印刷法を利用,需要者の注文を迅速にこなす印刷業者を軽印刷業と呼ぶようになった。この軽印刷の用途は,各種の事務用印刷物,講演予稿,テキスト,議事録など,品質はともかく,文字を主とする黒1色のパンフレット類が多い。外国では,早くからタイプライターが普及したから,タイプ印字を謄写版とし,あるいは写真製版にして印刷物とする方法が利用された。日本では,文字数が多いため,手書きの謄写版(いわゆるガリ版)から,特殊のカーボン紙にタイプ印字し,ステンシル(型紙)を作って謄写版とするタイプ孔版,専用のタイプライター印字から写真製版によりオフセット平版を作るタイプオフセットへと進展した。また,オフィス・オートメーションの一環として開発されたワードプロセッサーの出力文字を元にして製版印刷することも行われるようになった。軽印刷の印刷機は一般に小型のオフセット式で,素人にも簡単に操作できるように,たとえば版の自動装着,印刷枚数管理,製版印刷から製本への一連作業可能なものなどが現れており,製版法も簡易化した写真製版や電子写真利用の方法など自動化が進んでいる。このような機器を用いて一般官公庁,学校,会社で印刷物を作ることを社内印刷(欧米ではインプラント印刷)といい,その増加は専業印刷業者の仕事を奪うものとして問題視されている。
特殊印刷は,紙の上にインキを移す一般印刷に対して,紙以外の物質,たとえば布地,金属,金属箔,セロハン,各種プラスチックなどに印刷することをいう。また,通常のオフセット平版印刷やグラビア印刷に対して,蛍光インキを使ったり,立体印刷にしたり,においの出る印刷物,液晶インキを使ったものなどを特殊印刷ということもある。グラビア印刷業界では,特殊印刷とは包装用のプラスチック諸材料に印刷することを指す。また,平面に印刷するのでなく,瓶の表面,曲面,球面などへの印刷(主としてシルクスクリーン印刷法による)や,卵やケーキなどやわらかい物質への印刷(静電印刷法による),豆本など微細な印刷,逆に戸外用超大型ポスターの印刷などを特殊印刷ということもある。
新しい技術的動向 エレクトロニクスの発達にともない印刷技術も自動化,省力化,省資源化し,高品質の印刷物を高速生産する方向にむかっている。もっとも大きな変革はカラー印刷の製版に用いられるカラースキャナーの出現である。従来写真的にカラー原稿を三色分解し,黄,赤紫,青緑の三色版を作っていたものを,ファクシミリ技術の応用によって短時間に,しかも大幅の修正可能な方法に転換させた。この新しいカラースキャナーは,カラー原稿としてリバーサルカラーフィルム(ポジカラー)を使うことを一般的にし,絵画でもいったんカラーフィルムに撮影し,これを原稿として三色分解を行い製版するという方式が採用されるようになった。また,短時間(早いものは10分以内)で三色分解ができ,その上コンピューターを利用して,鮮鋭度や色調などを変えることも可能になった。さらに,数枚のカラー原稿の合成や文字のはめこみなどもできる機種も実用になっている。
文字組版においては,従来の金属活字を使用する以上,邦文モノタイプの最高速でも毎分120字ほどの能力限界があり,写真植字の自動化がこれにとってかわった。ひろく電算植字といわれるのが,このシステムで,さん孔テープを入力することにより,毎分1000字以上の日本文をフィルムあるいは印画紙上に出力できることとなった。ただ単に文字を並べて出力するだけでなく,日本文特有の組版法則にしたがい,ビジュアル・ディスプレー・ターミナル,いわゆるVDTを使用した編集・校正機能をあわせ持つものもあらわれた。多くの新聞社では組版能力向上と,活版方式追放のためこのシステムを導入,編集製作は騒音の多い工場から静かで清潔な事務所に変わりつつある。
印刷物作製の全工程中,もっとも遅れているのは,原稿の作製と版下の作製である。原稿は創作活動であるから機械化や自動化はできないが,写真製版用の下絵である版下は,鉛筆書きのトレースが多いから自動化の可能性がある。版下作製機は,鉛筆書きの直線,曲線,図形,符号,文字類をカーソルでトレースし,この動きを記憶装置に貯え,プロッターに出力して黒色のペン書きとする。長方形,円,楕円,ロゴタイプ,文字などは指定されたキーその他で記憶装置から呼び出すことができるので,版下のラフ原稿全面にわたってトレースする必要はない。また,プロッター部にナイフをつけ,不透明フィルムを出力テーブルにおけば,製版時に必要な種々の形のマスクを作ることができる。
印刷機の自動化は早くから実現していたが,インキ供給量の制御はマイコン時代の到来とともに実用化された。原板フィルム,あるいは版面また校正刷を電子の目で走査し,各部の濃さを計り記憶,このデータをインキ装置に伝え,印刷インキは細片状に分割されたインキ溝を通じてそれぞれ必要量が供給される。
印刷が製版と狭義の印刷の二つの工程にわかれる以上,将来この両者をつなぐシステムが望まれる。製版のうち文字については,原稿からOCR(文字読取装置)あるいは音声入力し,絵や写真についてはモノクロームもカラーもふくめてスキャナーの時代となろう。印刷作業においては版の装着,紙の運搬,印刷機各部の調整などかなり自動化される個所が多いが,全工程をロボットにまかせるという段階には達していない。 執筆者:山本 隆太郎
日本の印刷業 沿革 江戸時代以前にも,木版による出版は多くみられたが,印刷業が近代企業として活発になったのは明治以降である。日本活版術の始祖とされている本木昌造 は,1869年(明治2)長崎に〈新街私塾〉という学塾を開き,その維持費を得るために活版印刷の工業化を考えた。彼は,上海美華書館から多量の活字,活字鋳造機,印刷機などを買いつけ,上海美華書館の館長ガンブルWilliam Gambleを迎えて活版伝習所を設立した。その指導のもと活字鋳造に成功した本木は,70年〈新街活版所〉を創設,同年門下の小幡正蔵,酒井三造らは大阪に〈長崎新塾大阪活版所〉を開いた。ついで門下の平野富二は新街活版所を引きつぎ,72年東京に〈長崎新塾出張活版製造所〉(発展して〈築地活版製造所〉になる)をつくり,73年には国産最初の本格的な印刷機を製造した。また,本木は横浜に陽其二(ようそのじ)を派遣して活版所を開かせ,日本最初の日刊新聞《横浜毎日新聞》の発刊(1870)にも尽力した。その後,79年の《朝日新聞》の発刊にかけて近代的新聞がつぎつぎと創刊されたが,新聞の発行部数の増加に伴い,印刷工業の規模も拡大した。雑誌や単行本も民間で出版され,一方政府はB.リーベルス,K.ブリュックらの印刷技師,銅版画家E.キヨソーネ を招いて紙幣,切手の印刷を行った。この間に,欧米から新しい印刷機械と技術が導入され,印刷業は明治期に大きな発展をとげた。今日の印刷大手3社(大日本印刷 ,凸版印刷 ,共同印刷)のうち大日本,凸版の2社と,図書印刷は明治期に創業している。大正期には第1次大戦の影響によるブームから印刷物の需要が大幅に増加し,注文に応じきれない時期さえあった。また,アメリカから効率の良いオフセット印刷機が導入され,一部の会社で使われた。第1次大戦後の日本経済はしだいに不況色を深め,やがて1920年には恐慌状態に陥った。印刷業も深刻な不況のもとで受注を奪い合って値下げ競争に走り,収益の悪化を招いた。他方,不景気のなかで大正末期には出版印刷の労働争議が目だち,共同印刷争議 のような大争議も発生した。昭和の初期まで印刷業は過度の競争が続き,経営不振のところが多かった。そこで,明治の末ころから組織されていた印刷同業組合は,既存組合員の経営安定化のため,新規開業や不正競争の抑制をはかったが,当時すでに印刷業は少数の大企業と多数の中小企業とに分かれていたために,業界の統制は難しかった。35年ごろには軍需を中心に景気が回復したが,経済はまもなく準戦時体制から戦時体制へ移り,印刷用紙の配給統制が厳しくなった。第2次大戦が40年に始まると,配給統制は著しく強化され,印刷業の活動は停滞を余儀なくされた。
第2次大戦直後は言論,出版の統制が廃止され,また戦時中の空白で人々は出版物に飢えていたから,本や雑誌は飛ぶような売行きで,印刷業も活況を呈した。その後,景気の波に従って印刷業は不振の時期もあったが,日本経済の高度成長とともに概して順調に発展した。この時期に印刷技術は凸版 印刷から平版 印刷,とくにオフセット印刷 に中心が移っていった。オフセット印刷は多種類の紙が使用でき,版サイズの縮小拡大が自由で,大量高速印刷にも適するからである。また人手不足や高速化も手伝って印刷機の自動化が進み,出版物の高級化に応じて印刷の多色化が多くなった。73年秋の石油危機を契機に低成長へ移ると印刷業の発展のテンポも鈍化し,印刷機械の能力拡大は慎重となり,一方で営業活動の強化が推進され,収益の維持がはかられた。
現状と特色 79年の工業統計表によると,印刷業の出荷額は約2兆7252億円であり,版式別では平版印刷物54%,凸版印刷物32%,紙以外の特殊印刷物10%,凹版印刷物5%である。用途別では事務用印刷物が一番多く,次いで宣伝印刷物,出版印刷物,包装印刷物の順である。得意先業種の上位は,商業・サービス業,出版業,各種団体等,官公庁,金融業の順になる。70年代半ばくらいから出版印刷の比率が低下し,商業印刷の比率が高まり,特殊印刷の伸びが目だつ。また印刷の対象もかつての紙から建材,布地,プラスチック,金属,ガラス等々に拡大し,電算植字機,電算組版等コンピューター化も進んでいる。
印刷業の事業所は全国に約3万1500あるが,出荷額の約25%は前述の大手3社が占めている(1979)。また大企業では出版印刷物のシェアが高く,中小企業では事務用印刷物のシェアが高い。印刷業の特色の第1は,少数の大企業と多数の中小企業(従業員9人以下の事業所が8割近くを占める)が共存する二重構造にある。大企業は新鋭大型設備を持ち生産性が高いが,中小企業は旧式小型設備で生産性の低いところが多かったが,1964年に中小企業近代化促進法の業種指示を受け,71年には同法の特定業種に指定され,合理化が推進されて中小企業の設備の改善はかなり進んだ。特色の第2は,顧客の注文に合わせて加工する受注産業 であるため,計画的な生産ができず,設備の稼動状況は需要動向に大きく左右されることである。またこのため,印刷業は顧客の多い都市部に集中する都市型産業となっている。特色の第3は,設備の近代化に伴い印刷能力が増加して能力過剰となり,収益性が向上しない傾向である。安定成長の下で需要の伸びが鈍化したこともあって,印刷物の企画やデザインなどの技術を高めて顧客をつかみ,かつ付加価値を高める方向がとられている。また大日本印刷,凸版印刷などの大手は,技術力を生かしてカラーテレビ用シャドーマスクやLSI用フォトマスクなどの精密電子など他分野に積極的に進出している。 執筆者:下田 雅昭