原の辻遺跡(読み)はるのつじいせき

精選版 日本国語大辞典 「原の辻遺跡」の意味・読み・例文・類語

はるのつじ‐いせき ‥ヰセキ【原の辻遺跡】

長崎県壱岐芦辺町深江にある彌生時代遺跡。二層に分類され、下層からは彌生中期後半の土器石器獣骨などが出土し、上層からは後期後半の土器、石器のほか鉄器、また貨泉、漢式土器片も出土した。大陸九州の文化の交流を示す貴重な遺跡。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「原の辻遺跡」の意味・わかりやすい解説

原の辻遺跡
はるのつじいせき

長崎県壱岐(いき)にある弥生時代の遺跡。壱岐市芦辺(あしべ)町深江、同市石田町石田、同市石田町池田に所在する。幡鉾(はたほこ)川のつくる沖積平野に突出した長さ500メートル、幅300メートルの北向きの台地とその周辺に立地する。国指定特別史跡。古く松本友雄、山口麻太郎らによる調査紹介がなされ知られていたが、1939年(昭和14)台地の北東端が耕地整理によって削られた際、銅鏡、銅鏃(どうぞく)、多くの骨角器などを出土して注目された。このとき鴇田(ときた)忠正は3層の包含層を認めた。51~53年(昭和26~28)の東亜考古学会の調査では2層に分類された。74~77年の長崎県教育委員会の調査でもほぼ同様の結果を得ている。下層からは弥生中期後半の土器、抉入石斧(えぐりいりせきふ)、紡錘車(ぼうすいしゃ)、石包丁(いしぼうちょう)片、石剣片などの石器、鯨骨(げいこつ)製紡錘車、獣骨などが出土し、上層からは後期後半の土器を主体として、太形蛤刃(はまぐりば)石斧、石鏃などの石器のほかに、鉄斧(てっぷ)、鉄鋤先(てつすきさき)、鉄鉇(てつやりがんな)などの鉄器が多く出土し注目された。また貨泉、漢式土器片も出土した。弥生時代の鉄器の問題、貨泉・漢式土器に示される中国・朝鮮との関係などの点で、同島加良香美(からかみ)遺跡などとともに重要な遺跡である。

 幡鉾川流域の水田基盤整備事業に伴って、1991年(平成3)から芦辺町、石田町(ともに2004年合併し壱岐市となる)の教育委員会によって遺跡の範囲確認調査が実施された。この調査により、遺跡は長さ1200メートル、幅500メートルほどの広範囲に分布し、遺跡の中央部の台地は3条の環壕が巡る環壕集落であることが判明した。環壕の周辺には墓域が形成され、また道路状遺構、二つの突堤からなる船着場と考えられる遺構、水田跡などが検出されている。出土遺物は、前述のもののほかに、新たに卜骨(ぼっこつ)、短甲・楯(たて)などの木製品や建築部材も多く出土している。原の辻遺跡は弥生時代を通じて壱岐では最大の遺跡で、『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)に記載された一支国(いきこく)の拠点集落であったことは確実といえる。

[橋口達也]


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国指定史跡ガイド 「原の辻遺跡」の解説

はるのつじいせき【原の辻遺跡】


長崎県壱岐市芦辺町・石田町にある集落跡。長崎県の北方に浮かぶ壱岐島の南東部の台地から平野部に広がる大規模集落跡。遺跡は大正時代から注目され、戦前の発掘調査を経て、1975年(昭和50)以降引き続き行われた調査の結果、3重の環濠に囲まれた集落域の規模は24ha、その周辺の遺構を含めると、約100haに達することが判明。環濠内部では掘立柱建物跡の集中する祭場の一部や多数の竪穴(たてあな)住居跡からなる居住域、環濠の内外では墓域が確認され、船着き場跡も発見された。遺物としては土器や石器だけではなく、青銅器・鉄器・木器・骨角器などが良好な状況で多量に出土。とりわけ、大陸の集団との交渉を裏づける土器・青銅器・鉄器などが数多く認められ、中国の貨幣や人の顔の形をした人面石もあった。『魏志倭人伝』に記載された「一支国(いきこく)」の中心集落の様相が明らかになったことから、弥生時代の対外交渉を解明するうえで重要とされ、1997年(平成9)に国の史跡、2000年(平成12)には特別史跡に指定された。その後の調査によって、この遺跡が大陸系文物をめぐる流通の拠点であったことを強く示唆していることから、2005年(平成17)と2009年(平成21)に追加指定された。周辺は、原の辻一支国王都復元公園として整備され、出土品は壱岐市立一支国博物館に展示。芦辺港から車で約10分。

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改訂新版 世界大百科事典 「原の辻遺跡」の意味・わかりやすい解説

原の辻遺跡 (はるのつじいせき)

長崎県壱岐市の旧芦辺町と旧石田町にかけて存在する弥生時代前期から古墳時代初期にかけての遺跡。2000年に国の特別史跡に指定された。壱岐島の南東部の水田に突出する低段丘上にあり,大正時代から銅鏡,銅鏃や骨角器などが発見されて注意されるようになった。1951-53年の東亜考古学会の調査では大溝や住居跡が調査され,中期の下層で土器や石器など,後期の上層では鉄斧・鉄鋤先・鉄鉇などの鉄器や中国の新代の貨幣である貨泉と漢式土器などが発見されたことから,日本における初期鉄製品を考えるうえで重要な遺跡とされてきた。74-77年には長崎県教育委員会が発掘調査し,甕棺墓,石棺墓,大溝などから,ガラス勾玉などの玉類や鉄鉇,鉄鏃などが出土し,別に後漢鏡片や銅釧3個なども採集されている。1993年からの大規模な発掘調査では,三重の環濠で囲まれた大規模集落跡であることがわかっており,環濠の近くからは弥生時代中期と推定される日本最古の船着場の遺構も検出されている。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「原の辻遺跡」の意味・わかりやすい解説

原の辻遺跡
はるのつじいせき

長崎県壱岐市東部の芦辺から石田にまたがる弥生時代中~後期の遺跡。特に弥生時代後期前半に属する原ノ辻上層式土器とともに発見された鉄器類 (鍬先,鎌,槍鉋刀子,銛) は弥生時代の鉄器の実例として貴重である。国の特別史跡に指定されている。

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世界大百科事典(旧版)内の原の辻遺跡の言及

【ストラビンスキー】より

…08年に発表した管弦楽曲の《スケルツォ・ファンタスティック》と《花火》の2曲が,ディアギレフに認められ,この天才的な興行師から,バレエ・リュッスのパリ公演のためのバレエ音楽の作曲を委嘱された。《火の鳥》《ペトルーシカ》《春の祭典》が,バレエ・リュッスによってパリで上演され,いずれもセンセーショナルな話題を集め,ロシアの新進気鋭の作曲家の名前は,一躍ヨーロッパの音楽界に広まった。この初期の三大バレエ音楽は,ロシア民謡風の4音ないし5音の旋律,従来の拍節構造によらない自由なリズム,斬新なオーケストレーション,コラージュ風の構成法を用いており,新しい音楽的空間と音楽的時間を生みだした。…

【バレエ音楽】より

… 1910年代から20年代にかけて,ディアギレフの主宰する〈バレエ・リュッス〉のために,現代音楽の新しいイズムをもったバレエ音楽が相次いで創造される。ストラビンスキーの《火の鳥》(1910)と《ペトルーシカ》(1911)と《春の祭典》(1913),J.M.ラベルの《ダフニスとクロエ》(1912),ドビュッシーの《遊戯》(1912)などである。一方,同じ時期に発表されたファリャの《恋は魔術師》(1915)と《三角帽子》(1919)は,民族的色彩の濃いバレエ音楽として知られる。…

【表現主義】より

…この時期の代表作としてシェーンベルクの《期待》(1909),《ピエロ・リュネール》(1912),ウェーベルンの《弦楽四重奏のための六つのバガテル》(1913),ベルクのオペラ《ウォツェック》(1912‐24)などがある。なお,ストラビンスキーの《春の祭典》(1913)や,スクリャービンの《プロメテ》(1910)なども同様な内容を持っている。十二音音楽無調音楽【佐野 光司】。…

【ベジャール】より

…60年ブリュッセルのモネ劇場(1963年ベルギー国立劇場となる)の中に20世紀バレエ団を結成。《春の祭典》《ロミオとジュリエット》《ペトルーシカ》などの創作でバレエに演劇的要素を組み入れ,独自のスペクタクルを誕生させた。以後20世紀バレエ団は異色の集団バレエで国際的な反響を呼び起こした。…

※「原の辻遺跡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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