吉武遺跡群(読み)よしたけいせきぐん

日本歴史地名大系 「吉武遺跡群」の解説

吉武遺跡群
よしたけいせきぐん

[現在地名]西区吉武

飯森いいもり山麓東の標高三〇メートルから三五メートルの沖積地にある、旧石器時代から弥生時代、古墳時代、奈良―平安時代にかけての複合遺跡。昭和五八年度から同六〇年度に調査が行われ、弥生中期後半の墳丘をもつ区画墓である吉武樋渡よしたけひわたし遺跡、弥生中期初頭段階の副葬遺物や装飾具が集中する吉武高木よしたけたかぎ遺跡、青銅武器や磨製石剣や磨製石鏃の先端部が集中する吉武大石よしたけおおいし遺跡の様相が明らかとなった。吉武大石遺跡は吉武高木遺跡北西約一〇〇メートルに位置する集団墓で、一〇基の甕棺墓と四基の木棺土壙墓で青銅製武器や磨製石器の破片、副葬小壺が発見された。大石地区は高木地区と同数の青銅製武器をもつが、装身具が確認されたのは甕棺墓一基のみで、青銅製武器や磨製石剣、石鏃の破片が目立つことから、被葬者を戦闘集団とする見解もある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉武遺跡群」の意味・わかりやすい解説

吉武遺跡群
よしたけいせきぐん

福岡県福岡市西区の早良平野を北流する室見川左岸の扇状地上に所在する弥生時代の墓地遺跡群。 1981年以降福岡市教育委員会の調査で 10群 1200基以上の甕棺 (かめかん) ・木棺墓等を発見,特に高木・大石・樋渡の3地区を中心に多数の青銅器を含む豊富な副葬品が出土し,弥生時代の墓制研究に貴重な資料を提供した。中でも弥生中期初頭の吉武高木3号木棺墓は,多鈕 (たちゅう) 細文鏡・銅剣銅戈 (どうか) ・銅鉾・勾玉・管玉等「三種の神器」がセットで出土,同時期の他の墓に比べ著しく隔絶した地位にあり,「王墓」成立を考える上で重要である。大石地区では青銅武器のみ多く,また被葬者を突き刺した状態の磨製石剣の切先が出土し,戦士集団の墓と推定されている。樋渡地区では,5世紀の帆立貝式古墳の真下より弥生中期後半の墳丘墓が発見され,封土中に 27基以上の甕棺を検出,青銅器のほか鉄器が多く検出されている。出土した青銅器は全体的に鋭利に研磨された実用的なもので,日本域の出土例では最古の一群であり,朝鮮半島や東北アジアとの密接な関係がうかがえる。当地奴国伊都国のはざまに位置し,平野内の各集落を統括する有力集団として両国に先立って成立した「クニ」と考えられる。

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