精選版 日本国語大辞典 「吉田東洋」の意味・読み・例文・類語
よしだ‐とうよう【吉田東洋】
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(福地惇)
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幕末期土佐藩における開明的な藩政改革指導者。元吉(もときち)と称し、正秋(まさあき)と名のる。後藤象二郎(しょうじろう)は義理の甥(おい)。兄の死により家督を継ぐ。世禄200石。1853年(嘉永6)ペリー来航の対外的危機のなかで、藩主山内豊信(とよしげ)に起用され、参政(仕置役)となり、藩政改革の中心となる。翌年、些細(ささい)なことから免職となり閑地に退き多くの子弟を教育。後藤象二郎、福岡孝弟(たかちか)をはじめ、間崎哲馬(まざきてつま)、岩崎弥太郎(やたろう)らその数は多い。しかし情勢の深刻化は東洋の才能を必要とし、57年(安政4)暮れに再起用が実現。安政(あんせい)の大獄の進行に対応しながら、佐幕開国の方針をとり、洋式海軍の創設を考えていた。また格式制度を改革し、門閥打破の方向を打ち出し、人材を抜擢(ばってき)し、後藤、福岡、乾(いぬい)(板垣)退助(たいすけ)らを起用した。しかし、その改革は守旧派はもとより、尊王攘夷(そんのうじょうい)を主張する武市瑞山(たけちずいざん)一派の反対を受け、文久(ぶんきゅう)2年4月8日夜、勤王(きんのう)党の刺客那須信吾(なすしんご)、安岡嘉助(やすおかかすけ)、大石団蔵(おおいしだんぞう)に暗殺された。
[池田敬正]
『平尾道雄著『吉田東洋』(1959・吉川弘文館)』
幕末の土佐藩士。正秋と名のり,元吉と称する。東洋は号。1841年(天保12)世禄200石馬廻格の家督を相続。53年(嘉永6)藩政改革に際し藩主山内豊信(容堂)の下で登用され,政局の中心となる。そのころ東洋を知った水戸の藤田東湖は,東洋の豊信補佐を〈悍馬に鞭を加える〉ものと評した。翌年から57年(安政4)まで蟄居(ちつきよ)を命ぜられたが,この間子弟の教育に努める。藩庁に復帰後,その育てた人材を登用するとともに開明的な改革を推進した。東洋の下に集まった層は学問のある中堅家臣で,〈新おこぜ組〉といわれ,上層家臣の守旧派や軽格の勤王党と対立する。この結果,東洋は勤王党員に暗殺されたが,その政治の流れは後藤象二郎に受け継がれた。
執筆者:池田 敬正
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1816~62.4.8
江戸後期の高知藩士。馬廻格200石取りの正清の四男。名は正秋。東洋は号。1842年(天保13)船奉行,44年(弘化元)藩主によるおこぜ組発足にともない郡奉行となるが,翌年病気のため辞職。辞職中建白書「時事五箇条」をまとめ法制整備・人材登用などを提案。新藩主の山内豊信(とよしげ)により大目付に任じられ,53年(嘉永6)8月,ペリー来航時の米国国書に対する高知藩の意見書をまとめる。54年(安政元)免職。この間,土佐国長浜に小林塾を開き,後藤象二郎・岩崎弥太郎らを集める。57年復職し,安政改革を主導するが,公武合体的な志向から土佐勤王党に殺害される。
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