吉田清成(読み)よしだ・きよなり

朝日日本歴史人物事典 「吉田清成」の解説

吉田清成

没年:明治24.8.3(1891)
生年弘化2.2.14(1845.3.21)
明治前期の外交官薩摩(鹿児島)藩士吉田源左衛門の4男として城下の上之園町に生まれる。通称巳二。幼少より才気煥発,学問を好んだ。藩立開成所に入り石河確太郎から蘭学を学ぶ。慶応1(1865)年3月,藩留学生に選ばれ永井五百介の変名で英国へ密航。2年間ロンドン大で学んだあと米国へ渡り,宗教家T.L.ハリスの教団に参加,労働を中心とする信仰生活に入る。明治1(1867)年5月,教団を脱退しラトガース大に入学,アナポリス海軍兵学校を志すが途中で断念,翌年ウィルブラハム・アカデミーへ移り政治経済学の勉強を始める。ラトガース在学中の11月に正式に洗礼を受ける。卒業後ニューヨーク市などで銀行保険業務の実際を学び,3年12月帰国。理財に通暁した才をかわれて翌年大蔵省へ出仕,10月大蔵少輔へ昇任。5年,秩禄処分の財源獲得のため外債募集担当理事官として米英に派遣され,6年1月英国でオリエンタルバンクとの交渉に成功。7年,駐米公使へ転出,寺島外務卿の下で関税自主権回復を目的として条約改正交渉に従事し,11年7月日米約書(吉田・エヴァーツ条約)の調印に成功するが,英独の反対で条約は無効となる。15年7月外務大輔となるが,時の外務卿井上馨 と意見が合わず,18年には農商務大輔へ転任,20年子爵投機取引を抑制する取引所条例制定の推進者としても有名で,終生自分が理財家たることを忘れなかった。<参考文献>犬塚孝明『薩摩藩英国留学生』『明治維新対外関係史研究』

(犬塚孝明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉田清成」の意味・わかりやすい解説

吉田清成
よしだきよなり
(1845―1891)

明治政府の外務・財政官僚。弘化(こうか)2年2月24日、薩摩(さつま)藩士の家に生まれる。通称は太郎。英学を学び、1865年(慶応1)藩派遣留学生の一人として英、米に渡り、とくに銀行・保険制度を修学。1870年(明治3)帰朝し、明治新政府に出仕して租税権頭(ごんのかみ)、大蔵少輔(しょうゆう)を歴任。秩禄(ちつろく)処分のため、英、米で起債に奔走。1874年、駐米特命全権公使。1878年税権回復を目ざし日米間の条約改正(吉田‐エバーツ条約)には成功したが、未発効に終わる。1882年外務大輔(たいふ)。のち外務次官、農商務次官から元老院議官枢密顧問官に転じ、子爵に叙せられた。著書に『亜米利加(アメリカ)合衆国憲法』などがある。明治24年8月3日没。

[田中時彦]

『京都大学文学部国史研究室編『吉田清成関係文書 書翰篇』1~4(1993~2008・思文閣)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「吉田清成」の解説

吉田清成 よしだ-きよなり

1845-1891 明治時代の外交官。
弘化(こうか)2年2月14日生まれ。元治(げんじ)2年薩摩(さつま)鹿児島藩留学生となり英,米でまなぶ。明治4年大蔵省にはいり,外債募集に成功。7年駐米公使となり,11年関税自主権回復の日米新条約(吉田・エバーツ条約)を締結した。のち農商務次官,元老院議官,枢密顧問官。明治24年8月3日死去。47歳。幼名は巳之次。通称は太郎。

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