吉祥寺(読み)きちじょうじ

精選版 日本国語大辞典 「吉祥寺」の意味・読み・例文・類語

きちじょう‐じ キチジャウ‥【吉祥寺】

[一] 東京都文京区本駒込にある曹洞宗の寺。山号は諏訪山。長祿年間(一四五七‐六〇太田道灌が青厳周陽を開山に江戸城の和田倉門内に創建。天正一八年(一五九〇徳川家康が江戸城造営の際神田台(水道橋北側)に移し、明暦三年(一六五七)の大火ののち現在地に移転。文祿四年(一五九五)曹洞禅の修学のために旃檀林(せんだんりん)を創始した。
[二] 東京都武蔵野市の東部、中央線吉祥寺駅を中心とする一帯の地名。明暦の大火後、吉祥寺門前町の住民がこの地に転居したところから、その名がある。現在は住宅地として発展し、JR中央本線、京王井の頭線が通じる駅前は、商業集積がいちじるしい。
[三] 北九州市八幡西区吉祥寺町にある浄土宗の寺。山号は誕生山。浄土宗鎮西流の始祖、大紹正宗国師(弁長)誕生の地。
[四] 宮崎県宮崎郡佐土原町にある法華宗(本門流)の寺。山号は恵日山。天正六年(一五七八)佐土原藩主島津以久が、日種を開山に創建。佐土原鬼子母神。きっしょうじ。

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デジタル大辞泉 「吉祥寺」の意味・読み・例文・類語

きちじょう‐じ〔キチジヤウ‐〕【吉祥寺】

東京都文京区本駒込にある曹洞宗の寺。山号は諏訪山。長禄2年(1458)太田道灌江戸城和田倉門内に創建。開山は青巌周陽。天正18年(1590)徳川家康の入城で、神田駿河台に移り、さらに明暦3年(1657)の大火後、現在地に移転。文禄4年(1595)創始の旃檀林(駒沢大学の前身)は江戸時代曹洞禅学の中心。
東京都武蔵野市の東半部の地名。住宅地。明暦の大火後、の門前町の人々が移住して新田を開いた。

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日本歴史地名大系 「吉祥寺」の解説

吉祥寺
きちじようじ

[現在地名]川場村門前

門前もんぜん集落背後の山麓にある。青竜山と号し臨済宗建長寺派、本尊釈迦如来。暦応二年(一三三九)利根庄地頭大友氏泰が、父貞宗の七回忌に当たり追善のため慧済禅師(中巌円月)を開山に迎えて建立。「中巌円月自歴譜」同年の項に「冬、下上州利根、吉祥寺、十二月初三、追薦江州(貞宗)」とあるは「はじめる」の意)。また円月の「東海一集」によると康永三年(一三四四)仏殿、翌年僧堂が成っており、同書に吉祥寺新建方丈上梁文が載る。自歴譜や一集によれば貞宗と円月が知合ったのは正中二年(一三二五)で、この年円月は元に渡航。帰国後の元弘三年(一三三三)一二月三日貞宗が没すると、「祭大友江州」と題する漢詩を詠んで死を悼んでいる。その後は氏泰との交流があり、円月は暦応元年利根庄に下っている。寺院建立の準備のためであろう。なお大友家文書録の「氏泰兄弟」のなかに「即宗」がみえ、「為僧、称和尚、住於上野国利根吉祥寺」と記されている。

貞和四年(一三四八)氏泰は弟氏時に家督を譲るが、その後の観応三年(一三五二)八月一日足利尊氏は、吉祥寺長老宛に御教書(写、前田家所蔵文書)を発して当寺を祈願所とした。

吉祥寺
きちじようじ

[現在地名]浦和市中尾

宝珠山十輪院と号し、天台宗。本尊は阿弥陀如来。現在は天台宗別格本山となっているが、かつては仙波せんば中院(現川越市)の末寺であった。寺伝では天長六年(八二九)慈覚大師円仁によって開かれたという。中世には中院の有力な末寺であったが、永禄一〇年(一五六七)本山背反事件を引起した。当寺は本山出仕を怠り、勝手に大灌頂を行ったため武蔵の天台宗諸寺院から咎められ(永禄一〇年一一月二八日「多東深大寺円定証状」中院文書、同一一年正月二八日「高麗清光院宥好証状」同文書など)、さらに関東天台宗の有力寺院である上野世良田長楽せらだちようらく(現群馬県尾島町)の尊慶から河越城主大道寺政繁を通して小田原北条氏に訴えられ、分国追放を求められている(元亀二年八月二七日「長楽寺尊慶書状」同文書)

吉祥寺
きちじようじ

[現在地名]櫛引町板井川

板井川いたいがわの西部、吉祥寺山の中腹にあり、庄内平野が一望できる。太白山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。寺伝によれば、正平元年(一三四六)加賀国大乗だいじよう(現金沢市)五世徹山旨廓が武藤持氏の大病を治してその帰依を受け、当寺を開いたと伝える(吉祥寺誌)大宝寺だいほうじ(現鶴岡市)城主武藤氏の系図である大泉荘当家藤原殿前七代系図(本間美術館蔵)に「持氏 吉祥寺旦那 御命日七月十日」とみえる。玉川ぎよくせん(現羽黒町)正法しようぼう(現鶴岡市)総光そうこう(現飽海郡松山町)永泉ようせん(現同郡遊佐町)とともに庄内山五ヵ寺の一つに数えられ(筆濃余理)、近世は板井川村内に高一三石五斗の寺領を有し、現櫛引町内など、庄内に末寺一二ヵ寺を数えた(吉祥寺誌)

吉祥寺
きちじようじ

[現在地名]文京区本駒込三丁目

諏訪山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。当寺は長禄年間(一四五七―六〇)太田道灌の江戸築城の際、井戸の中から「吉祥」二字を刻んだ金印が出土したことから、吉祥庵と称する小堂が建立されたことに始まる。当初は和田倉わだくら(現千代田区)にあり、大永年間(一五二一―二八)に青巌周陽を中興開山として吉祥寺と号した。

吉祥寺
きつしようじ

[現在地名]清水町粟生

粟生あおの集落中にあり、背後に山が迫る。光明山地福院と号する浄土宗寺院。本尊阿弥陀如来(木造坐像、県指定文化財)。草創はつまびらかでないが、寺伝によれば平安時代後期には存在していたという。応永三四年(一四二七)創建の薬師堂は国指定重要文化財。その棟札に「棟上奉造立東福寺」とあり、もとは東福とうふく(現清水町)の建物であった。当寺の伝えによると東福寺は享保一〇年(一七二五)に当寺支配となり、安永二年(一七七三)当寺末となった。

吉祥寺
きつしようじ

[現在地名]佐土原町上田島

旧佐土原城下の南東、現在公園となっている宝塔ほうとう山の東に位置し、北西に大光だいこう寺がある。恵日山と号し、法華宗(本門流)。本尊は十界勧請曼荼羅。佐土原鬼子母神とも称される。開基は天正六年(一五七八)と慶長八年(一六〇三)の二説があり、島津家久または佐土原藩主初代の島津以久が大隅国種子島の慈恩たねがしまのじおん(現鹿児島県西之表市)の僧日種を招いて建立し、創建時は本勝ほんしよう寺と称したという。

吉祥寺
きちじようじ

[現在地名]黒部市山田新

曹洞宗で、山号は大悲山、本尊釈迦如来。もと吉城寺きちじようじ村にあり、弘治元年(一五五五)魚津常泉じようせん寺の松室文寿(松倉城主椎名康胤の子)による創建で、戦国期の兵火にかかり記録等を焼失し、安政六年(一八五九)に復興され、昭和六年(一九三一)現在地に移転した。旧境内地(現宮野運動公園に隣接)には吉祥寺の大杉がある。戦国期以前は臨済宗であった。

吉祥寺
きつしようじ

[現在地名]津島市中野町

樹林に囲まれた八剣はつけん社の西脇に沿って細い参道があり、寺坊は社殿の北側にある。青竜山と号し、真言宗智山派。本尊は不動明王立像。

明治元年(一八六八)の神仏分離までは八剣社の社僧坊であり、第一〇世までは男僧であったが、以後四代尼僧寺院である(津島町史)。八剣宮はもと津島村の南端下構しもがまえに鎮座していたが、洪水によって中野なかのへ漂流、それより寺内に鎮座と伝承しているが、延享五年(一七四八)の村絵図には光浄こうじよう寺の裏手東に吉祥坊と八剣社が並べて描かれている。

吉祥寺
きつしようじ

所在地は未詳であるが、荒川あらかわにあった吉祥院が、あるいは名跡をうけたものかとされる(日高町史)。文永七年(一二七〇)二月二一日の後嵯峨上皇院宣によって、吉祥寺は蓮台れんだい寺、石和田いしわだ(現養父町)とともに本領主両度寄進状に任せ進美しんめい寺領として、国衙の妨げを停止されている。建治三年(一二七七)六月二二日の亀山上皇院宣、弘安九年(一二八六)七月一六日の官宣旨(以上、進美寺文書。いずれも案文)でも同様国衙の妨げが停止されており、官宣旨では吉祥寺・蓮台寺を進美寺別院としている。ところが、後欠のため年月日未詳の天台座主無品親王庁下文(同文書)によれば、両寺は在庁資経法師六代相伝の所領であったが、文永年中聖憲が近江延暦寺造営料国であった但馬の国務に任じたとき、進美寺の領家職を兼ね、故なく押領して進美寺に寄付し、別院と号したといわれ、国領地として正税を弁済することを命じている。

吉祥寺
きちしようじ

[現在地名]盛岡市名須川町

光台こうだい寺の西にある徳玄とくげん寺の西隣に位置する。三峯山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば、開山は陸奥貞昌ていしよう(現青森県弘前市)の徒弟秀廓で、寛文五年(一六六五)盛岡藩四代藩主南部重信から兄重直の荼毘の地および供米地を与えられ、その戒名即性院殿三峯宗玄大居士から山号をとって三峯山吉祥寺と称したという。本尊は俗称歯生の弥陀とよばれ、約三尺二寸の木造阿弥陀如来であるが、かすかに開いた唇の間から上歯四枚ほどがのぞいて見えるという珍しい仏像で、当寺建立の際、本尊を田名部常念たなぶじようねん(現青森県むつ市)から遷座したが、首がなかったため別名首なし弥陀ともよばれていた。

吉祥寺
きちじようじ

[現在地名]八幡西区吉祥寺町

誕生山聖光院と号し、浄土宗。香月則宗を大檀越として、建保五年(一二一七)に創建されたという。開山は浄土宗鎮西派の開祖弁長(聖光房弁阿)で、本尊の阿弥陀如来は弁長作と伝える。弁長は香月氏の一族古川則茂入道順乗の子として「香月庄楠橋邑」に生れたとされる(「鎮西聖光上人香月系譜」など)。しかし一説に母(聖寿妙養禅尼)の実家である当地が誕生地ともいい(境内は妙養尼の旧宅跡ともいう)、誕生山の山号はこのことにちなむという(「蓮門精舎旧詞」など)

吉祥寺
きつしようじ

[現在地名]今治市新谷

新谷にやの中央、脇にある。瑞雲山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊はもと阿弥陀如来であったがのち聖観音菩薩となった。寺伝によると文明一一年(一四七九)大猷慈済の開創で、天正年中(一五七三―九二)法室宗伝の頃寺域が整備された。境内の薬師堂には、薬師如来を中心に三三体の観音像を祀り、寺宝に大般若経六〇〇巻がある。末寺に正通寺があったが、江戸初期すでに廃寺となっている(貞享二年「寺社明細言上書」)

吉祥寺
きつしようじ

[現在地名]北川町川内名 深瀬

和戸内わとうち山の西麓、川東岸の楠木原くすのきばるにある。如意山と号し、曹洞宗。本尊は聖観音。江戸時代は台雲だいうん(現延岡市)末であった。延徳元年(一四八九)領主土持常綱の創建で、常綱の嫡男親栄のとき土村忠高に勧めて寺領を寄進させたと伝える。天正六年(一五七八)大友宗麟の日向進攻によって兵火にあい、本堂・宝物等をすべて焼失し、同一九年土持氏の遺臣夏田清久によって再建された。

吉祥寺
きちじようじ

[現在地名]総和町水海

正蔵しようぞう寺の南に所在。水海みずうみ四ヵ寺の一つ。山門前に二メートルの大石塔が建ち、「南無阿弥陀仏 安永四乙未春三月建立 葛飾郡水海道場」と刻む。山門を入ると左に観音堂、右に鐘楼、正面に本堂がある。清浄山歓喜院と号し、時宗。本尊阿弥陀如来。寺伝によるともとは柳原やなぎはらの地にあり、真言宗であったが、住僧真海の時、嘉元二年(一三〇四)または同三年に一遍の徒弟の真教が当寺に留錫、時宗に改宗され今仏勧進の道場となった。

吉祥寺
きつしようじ

[現在地名]稲沢市高御堂町 南屋敷

美濃路と大江おおえ川の間にあり、蓮御山と号し真言宗豊山派、本尊阿弥陀如来。承和元年(八三四)空海の創建と伝え、七堂伽藍の大刹であったが兵火により焼失した。天保村絵図に字青胎寺せいたいじ・字観音寺かんのんじ・字讃善寺さんぜんじなどとみえ、地名に残っている。文保二年(一三一八)再建して実尊を中興開山とするとも、足利尊氏の再建とも伝える(徇行記、稲沢市内寺院調)

吉祥寺
きちじようじ

[現在地名]久世町久世

さかえ町にある。児守山実相院と号し、本尊十一面観音。真言宗御室派。初め中島なかしまにあったが、度々水害にあい現在地に移転したという(作陽誌)。一木造の十一面観音像のほか、三坂みさか出土の石仏三坐像・狛犬と、正徳年間(一七一一―一六)までしも町にあり、当寺の末寺であったとされる華蔵けぞう庵の本尊である阿弥陀如来像や華蔵庵住職の寂然写経の法華経八巻などが保管されている。

吉祥寺
きつしようじ

[現在地名]熊本市横手三丁目

安国あんこく寺の西裏手にあり、紫雲山と号し、曹洞宗。「国誌」に「山号或ハ雲谷山ト記ス、建立不分明、開山賢波和尚ト云伝フ、或記熊本禅定寺四世賢叟俊察和尚開基」として、加藤清正家臣の梶原平左衛門景秀の菩提寺と記しているので、慶長末年の開基と推定される。第二次世界大戦後無住となり、荒廃が目立ち墓碑なども相当くずれている。本堂裏手に歴代住職の無縫塔がある。住職墓の前方に寛永期(一六二四―四四)と思われる有角五輪の残欠があり、有吉家の墓碑ではないかと思われる。

吉祥寺
きつしようじ

[現在地名]西根町平笠 山崎

平笠ひらかさの中央にあり、岩鷲山と号し、曹洞宗、本尊釈迦如来。寺伝によれば、盛岡永祥えいしよう院二世通外香達が元和(一六一五―二四)から慶安(一六四八―五二)にかけて布教に来訪、まつ川沿いの下村しもむらで屋号宿しゆくの高橋弥四郎家に滞在し、檀家九〇戸が堂宇を建立したという。

吉祥寺
きつしようじ

[現在地名]萩市見島 本村

本村ほんむら集落の北西にあって、西隣に見島みしま神社がある。浄土宗。海福山と号し、本尊は阿弥陀如来。

寺伝によれば、宝治元年(一二四七)島内の片山かたやまに禅宗寺院として創建されたという。開山・開基ともに不詳。その後、火災に遭い、再建(年次不詳)され、現寺号に改められたという。

吉祥寺
きつしようじ

[現在地名]岩木町高屋 福田

福田ふくだ集落にある。和光山と号し、曹洞宗。昭和二三年(一九四八)寺号を称し、それ以前は吉祥庵といった。吉祥庵は賀田よしたに開庵され、文禄三年(一五九四)津軽氏の堀越ほりこし(現弘前市)進出に伴い廃庵となっていたが、天保三年(一八三二)に再建された。

吉祥寺
きつしようじ

[現在地名]五條市丹原町

峰垣内みねがいと集落の高所にあり、紫水山宝塔ほうとう院と号し、高野山真言宗。本尊毘沙門天。「大和志」「大和名所図会」に正堂一、僧舎三を記す。平安後期の如来形坐像・阿弥陀如来像、鎌倉時代の阿弥陀三尊六地蔵来迎図(県指定文化財)、南北朝時代の釈迦十六善神図などがある。

吉祥寺
きちじようじ

[現在地名]西条市氷見

国道一一号沿いの北側寺の下てらのしたにある四国八十八ヵ所の六三番札所。密教山と号し、真言宗東寺派。本尊毘沙門天。境内東西三〇間、南北二五間、初め現在地より東南五町ほどの山中にあったが、天正一三年(一五八五)七月の戦火で焼失、現在地に移ったという。

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改訂新版 世界大百科事典 「吉祥寺」の意味・わかりやすい解説

吉祥寺 (きちじょうじ)

東京都武蔵野市東部の地名。地名の起りは,明暦の大火(1657)の翌年の火事により神田水道橋ぎわにあった曹洞宗の吉祥寺が駒込へ移転したが,その門前は火除地(防火帯)として住民が立ちのきを命ぜられ,この武蔵野の地の新田開発(吉祥寺新田)をしたことに始まる。付近一帯の道路網は現在でも短冊型の新田地割りをよく残している。1899年甲武鉄道(現,中央本線)の駅の誘致に成功し,1934年には帝都電鉄(現,京王電鉄井の頭線)が吉祥寺まで延長され,交通の便がよくなった。このころから都市化が進み,近くの井の頭公園(1917開園。三鷹市),井の頭自然文化園(1942開園)も多くの人をひきつけた。第2次大戦後の発展はさらに急速で,吉祥寺の商店街は住宅都市武蔵野市一帯の核として発展している。新宿~立川間の中央本線沿線では最も多くの大型店が集中するだけでなく,吉祥寺サンロードと呼ばれるアーケード式プロムナードもあり,東京の副副都心としての性格を強めつつある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉祥寺」の意味・わかりやすい解説

吉祥寺
きちじょうじ

東京都西部,武蔵野市東部の地区。 JR中央線と京王電鉄井の頭線の接続する駅付近は西郊の商業中心地域をなす。近年,都営・公団住宅の建設が進み,住宅衛星都市的な性格を強めている。大学も多く,学園都市でもある。地名の由来は,江戸時代,現在の水道橋の地にあった吉祥寺の門前の住民をこの地に移して新田開拓をさせたことによる。地区外南部 (三鷹市) に井の頭公園がある。

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百科事典マイペディア 「吉祥寺」の意味・わかりやすい解説

吉祥寺【きちじょうじ】

東京都武蔵野市の東半部。関東大震災後住宅地として急速に発展。中央本線と京王電鉄井の頭線が通じる吉祥寺駅を中心に商店街が発達,付近に井の頭公園,成蹊大学武蔵野美術大学がある。地名は明暦の大火の際,水道橋の吉祥寺(現在は文京区駒込にある。曹洞宗)門前の住民を移し,新田を開拓させたことに由来。

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デジタル大辞泉プラス 「吉祥寺」の解説

吉祥(きちじょう)寺

愛媛県西条市にある寺院。真言宗東寺派。山号は密教山、院号は胎蔵院。本尊の毘沙門天は「米持ち大権現」とも呼ばれる。四国八十八ヶ所霊場第63番札所。

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世界大百科事典(旧版)内の吉祥寺の言及

【松広寺】より

…韓国,全羅南道昇州郡松光面にあり,新羅末期慧隣国師の創建と伝える。初め吉祥寺と称し,高麗明宗のとき普照国師知訥(ちとつ)の寺域拡張によって栄え,山号を曹渓山修禅社と改め,さらに熙宗4年(1208)王命により松広寺と改称,朝鮮禅の根本道場として知られた。仏の通度寺,法の海印寺,僧の松広寺と称され,天下三宝にあげられるほど僧侶・堂舎数の多い寺院である。…

【武蔵野[市]】より

…東は杉並区,北は練馬区,保谷市,南は三鷹市と接し,市街地が連続する。市域には江戸初期の新田開発による短冊形地割りが残り,吉祥寺,西窪(現,西久保),関前,境などの地区名は新田開拓者の出身地名に由来する。1889年甲武鉄道(現,中央本線)が開通して境駅(現,武蔵境駅)が,99年に吉祥寺駅が開設され,関東大震災後,近郊住宅地として本格的に発展した。…

※「吉祥寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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