向山黄村(読み)むこうやま・こうそん

朝日日本歴史人物事典 「向山黄村」の解説

向山黄村

没年:明治30.8.12(1897)
生年:文政9.1.13(1826.2.19)
幕末幕府閣僚,明治の漢詩人。通称栄五郎,名は一履。一色真浄の子に生まれ向山源太夫の養子となる。養父源太夫は号を誠斎といい,微禄ではあったが文名は高く,ペリー来航の直後,求められて意見書を提出した人である。源太夫の教育を受け,昌平黌に学んだのち教授方出役。安政3(1856)年,箱館奉行支配組頭に任命された源太夫に伴われ同地に赴く。翌年8月,源太夫が任務出張中に宗谷病没,そのあとを受けて組頭となる。のち外国奉行支配組頭となり,文久1(1861)年対馬に出張,水野忠徳知遇を得て同3年5月目付に昇進した。その直後,老中格小笠原長行に従い,兵約1500を率いて大坂に上陸,尊攘運動抑圧を図ったが朝廷の非難を招き失敗,免職差控に処せられる。翌元治1(1864)年9月目付に再任。 翌慶応1(1865)年閏5月,将軍徳川家茂に従い大坂に赴く。9月兵庫開港を外国に回答した阿部正外,松前崇広に対し,朝廷は老中罷免・官位剥奪・国許謹慎を命じた。これを人事干渉とみて反発した幕府は,将軍の辞職と江戸帰還を決定。命ぜられて辞表の文を作る。徳川慶喜の周旋により辞表が撤回されたのち,目付を罷免さる。翌2年10月外国奉行。翌3年1月,パリ万国博覧会に出席の徳川昭武に従って横浜を出港,渡仏。5月駐仏公使に任命され若年寄格に進むが,幕府の地位を軽視し始めたフランス外務省と対立,後任の栗本鯤(鋤雲)に事務を引き継ぎ12月パリを出立。香港で戊辰戦争の勃発を知る。明治1(1868)年2月帰国。同3月若年寄に進められるも辞任。時に年43歳。以来,世を隔てて日々を送る。詩にいう,「先朝の白髪に遺臣あり 世を遁れ優游す寂寞の浜 樗櫟は同く迎う新日月 予樟は尚お見る旧精神……」。徳川を先朝とみてこれに殉じようとの態度である。過去を語ることを好まず,骨董と詩作を愛し,杉浦梅潭の晩翠吟社の一員だった。六千七十余首の作品があったという。<著作>『游晃小草』『景蘇軒詩鈔』

(井上勲)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「向山黄村」の解説

向山黄村 むこうやま-こうそん

1826-1897 幕末-明治時代の武士,漢詩人。
文政9年1月13日生まれ。向山誠斎の養子。幕臣。箱館奉行支配組頭,目付をへて慶応2年(1866)外国奉行。翌年パリ万国博使節団に随行し,駐仏公使となる。維新後は静岡藩の学問所学頭をつとめ,のち東京で漢詩人として知られた。明治30年8月12日死去。72歳。本姓は一色。名は一履,栄。通称は栄五郎。著作に「游晃小草」など。

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