向嶽寺(読み)コウガクジ

デジタル大辞泉 「向嶽寺」の意味・読み・例文・類語

こうがく‐じ〔カウガク‐〕【向嶽寺】

山梨県甲州市にある臨済宗向嶽寺派の大本山。山号は塩山。開創は天授6年=康暦2年(1380)、開基は武田信成、開山は抜隊得勝ばっすいとくしょう。向嶽庵と称したが、天文16年(1547)現寺号に改称。寺宝「達磨図」は国宝。向嶽元中禅寺。

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精選版 日本国語大辞典 「向嶽寺」の意味・読み・例文・類語

こうがく‐じ カウガク‥【向嶽寺】

山梨県塩山市上於曾(かみおぞ)にある臨済宗向嶽寺派の本山。山号は塩山。康暦二年(一三八〇)武田信成が創建。開山は抜隊得勝(ばっすいとくしょう)。以来、武田家代々の帰依を得た。国宝の達磨図(蘭渓道隆讚題)がある。

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日本歴史地名大系 「向嶽寺」の解説

向嶽寺
こうがくじ

[現在地名]塩山市上於曾

しおノ山の南麓にある。塩山と号し、臨済宗向嶽寺派の大本山。本尊は釈迦如来。創建は康暦二年(一三八〇)、開山は恵光大円禅師抜隊得勝、開基は甲斐守護武田信成(「塩山向嶽禅菴小年代記」など)。開山抜隊得勝は嘉暦二年(一三二七)相模国中村なかむら(現神奈川県小田原市など)生れで俗姓は藤原氏。出雲雲樹うんじゆ(現島根県安来市)孤峯覚明に参じ法灯派の印可を受け、永和四年(一三七八)三月武蔵横山よこやま(現東京都八王子市)から甲斐高森(竹森)に入り草庵を結んだ。同所にいた三年のうちに多数の僧尼が訪れるようになった。だが同所は山路・高坂が続き不便であったため、最初に弟子となった宝珠ほうじゆ(現牧丘町)住持昌秀のすすめにより康暦二年武田信成から寺地の寄進を受け塩ノ山南麓に移り、一寺を建立して向嶽庵と命名した。寺名はかつて近江国にいた折、富士山に向かい法を説く夢をみたことによる(向嶽菴開山抜隊和尚行実)。抜隊は戒律に峻厳で、とくに罰酒神を勧請して飲酒戒を励行。一方、庶民を禅により教化するため平易な言葉で「塩山和泥合水集」「塩山仮名法語」などの著書を編んだ。向嶽庵は元中二年(至徳二年、一三八五)に後亀山天皇から勅願寺に列せられたというが(桜雲記)、確証はない。

抜隊は至徳四年二月二〇日没(前掲行実)。没後向嶽庵は門下の俊英たちによる輪番住持となった。二世通方明道は抜隊の語録の整理・編纂を行い、問答・垂示・遺誡・行録を草した。これが至徳四年成立の「塩山抜隊和尚語録」である。このとき上梓した至徳三年一一月一五日刊記の「抜隊遺誡」「塩山和泥合水集」の版木は当寺に現存している(ともに国指定重要文化財)。三世峻翁令山(法光円融禅師)は五度にわたって住持となり、その間広園こうおん(現八王子市)国済こくさい(現埼玉県深谷市)を開き、関東に教線を拡大した。甲斐国内でも広済こうさい(現八代町)聖応しようおう(現境川村)月江げつこう(現富士吉田市)などの、のちの向嶽寺派の有力寺院が建立されている(令山峻翁和尚語録)。武田信成以降も歴代守護により保護を受け、寺領を寄進された。

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改訂新版 世界大百科事典 「向嶽寺」の意味・わかりやすい解説

向嶽寺 (こうがくじ)

山梨県甲州市にある寺。山号は塩山。臨済宗向嶽寺派の本山である。開山は法灯(ほつとう)派の抜隊(ばつすい)得勝(1327-87)で,1380年(天授6・康暦2)武田信成が創建した向嶽庵に始まり,85年(元中2・至徳2)後亀山天皇の勅願所となる。1547年(天文16)後奈良天皇の勅願寺となり,庵号を向嶽寺と改称し,武田信玄も保護に尽力した。武田氏滅亡のあと,83年(天正11)徳川家康から朱印地36石余の寄進を受け保護されたが,1782年(天明2)火災で諸堂宇を失った。87年の末寺帳によると,朱印地37石余,塔頭(たつちゆう)35宇,末寺50ヵ寺,孫末寺35ヵ寺を数えた。1890年向嶽寺派として独立し,現在末寺60ヵ寺余を有する。《蘭渓道隆賛達磨図》(国宝)を所蔵。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「向嶽寺」の意味・わかりやすい解説

向嶽寺
こうがくじ

山梨県甲州市塩山(えんざん)上於曽(かみおぞ)にある臨済(りんざい)宗向嶽寺派の大本山。塩山と号し、詳しくは向嶽元中禅寺(げんちゅうぜんじ)という。1380年(天授6・康暦2)武田信成(のぶなり)が抜隊得勝(ばっすいとくしょう)を開山として建立、向嶽庵(あん)と称したのに始まる。1385年(元中2・至徳2)後亀山(ごかめやま)天皇の勅願所となる。法燈(ほうとう)派の法を嗣(つ)いだ抜隊を慕って全国から1000余人の雲水が向嶽寺に集まったといわれる。1547年(天文16)後奈良(ごなら)天皇の詔(みことのり)を賜り、向嶽寺と改められ、出世道場とされた。武田晴信(信玄)も中興を図り、最盛時には41院、末寺700か寺があったと伝えられる。武田氏の滅亡後は徳川家の保護を受けたが、1786年(天明6)の大火で伽藍(がらん)を失い、中門だけが残った。現在の諸堂はその後の再建で、寺内に専門道場をもつ。絹本著色達磨図(だるまず)(国宝)、頂像(ちんぞう)などの寺宝がある。

[菅沼 晃]


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百科事典マイペディア 「向嶽寺」の意味・わかりやすい解説

向嶽寺【こうがくじ】

山梨県甲州市にある臨済宗向嶽寺派の本山。本尊釈迦如来。1380年抜隊(ばっすい)得勝を開山として武田信成が創建。信玄が寺地を寄進するなど武田氏の援助で栄えたが,その滅亡とともに衰え,のち徳川氏によって再興された。蘭渓道隆の賛のある国宝の達磨図のほか,室町期末の中門などの重要文化財があり,庭園は国指定名勝。

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デジタル大辞泉プラス 「向嶽寺」の解説

向嶽寺

山梨県甲州市にある臨済宗向嶽寺派の大本山。室町時代後期に建てられたとされる中門は国の重要文化財に指定されている。

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世界大百科事典(旧版)内の向嶽寺の言及

【甲斐国】より

…中世の甲斐は文化の面でも鎌倉と関係が深く,著名な禅僧が入国したり,日蓮が身延山を開いたりした。臨済宗は13世紀の後半,二度にわたって甲斐に流された鎌倉建長寺開山宋僧蘭渓道隆(らんけいどうりゆう)によって基礎が築かれたが,1330年(元徳2)夢窓疎石が笛吹川上流牧荘に恵林寺(塩山市)を,その半世紀後抜隊得勝(ばつすいとくしよう)が塩山のふもとに向嶽寺(同)を建て,ますます繁栄におもむいた。また日蓮は,1274年(文永11)甲斐源氏の一族波木井実長の招きを受けて身延の地に久遠寺(くおんじ)を建てた。…

※「向嶽寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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