向日市(読み)ムコウシ

デジタル大辞泉 「向日市」の意味・読み・例文・類語

むこう‐し〔むかふ‐〕【向日市】

向日

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日本歴史地名大系 「向日市」の解説

向日市
むこうし

面積:八・〇〇平方キロ

標高六〇―八〇メートル程度の向日丘陵とその東麓に位置し、東部はしだいに低くなって、標高一〇メートル前後のかつら川氾濫原の低地となる。東・北・西は京都市、南は長岡京市。近畿地方の最小面積の市である。

丘陵は古くは長岡ながおかとよばれ、「続日本紀」延暦三年(七八四)五月一六日条に、その南端近くにあった「長岡村」が初見する。「三代実録」貞観元年(八五九)一月二七日条には丘陵南端に鎮座する「向神社」(現向日神社)が初見する。平安遷都後まもなく、長岡の地帯を向(日)とよび始めたと思われ、向日山は「続後撰集」の土御門院の歌に詠まれる。

<資料は省略されています>

伏見(現京都市)や洛中からは「むこう」になることが、呼称の意であろうか。ただし「古事記」上巻にみえる「白日神」を向日神の誤字とする説が「古事記伝」などにあり、とすれば向日神の名称は奈良時代以前のものとなる。なお丘陵地一帯は南北朝時代頃から「西岡にしのおか」とよばれた。

〔原始〕

物集女もずめ町の中海道なかかいどう遺跡は先土器・縄文・弥生・古墳時代から平安時代に至る複合遺跡で、多量に出土する弥生時代の土器は、山城地方弥生後期末の標準土器をなしている。森本もりもと町の石田いしだ遺跡は低地の縄文後期集落跡で、植物質の食料をとっていたことがわかる。農業への志向は鶏冠井かいで遺跡に至って本格的となり、同遺跡はくもみや遺跡(長岡京市)とともに山城地方最初の水田耕作を伴う集落遺跡である。同町の森本遺跡は縄文後期以来の遺跡で、矢板を立て並べた用水路をもつ水田背後の、現在森本集落のある台地は縄文末期以来の集落跡と推定されている。向日町むこうまち北山きたやま遺跡は弥生中期・後期の高地性集落遺跡である。

北山遺跡と重複して、旧乙訓おとくに郡域最初の古墳元稲荷もといなり古墳(向日町)が現れる。農耕の発展は墓に葬られる首長を生みだし、向日丘陵には以後続々と古墳が築造される。北山古墳(向日町)五塚原いつつがはら古墳(寺戸町)は四世紀前半と推定される。北山古墳出土の舶載三角縁神獣鏡は湯迫車塚ゆばくるまづか古墳(岡山市)出土鏡と同笵関係にあり、同古墳は椿井大塚山つばいおおつかやま古墳(相楽郡山城町)と密接な関係にあることから、被葬者は大和朝廷と関係の深い首長と察せられる。四世紀後半と推定される寺戸大塚てらどおおつか古墳・妙見山みようけんやま古墳(寺戸町)から終末期の物集女古墳群(物集女町)へと続き、さらに平安前期の長野ながの古墓(物集女町)桓武天皇皇后陵(寺戸町)まで、丘陵地は歴史時代に入っても高位の人々の墓域であった。

〔古代〕

律令制のもとで、当市域は物集もずめ郷に比定され、条里制では乙訓郡八条から一三条にわたる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「向日市」の意味・わかりやすい解説

向日〔市〕
むこう

京都府南部,京都市の南西に接する市。 1972年市制。市域の東部は桂川の沖積平野,西部は洪積台地。開発の歴史は古く,古墳や条里制遺構が残る。中心市街地は西国街道に沿う街村として発達。 1928年新京阪電鉄 (現阪急電鉄京都線) が開通してから次第に住宅ができ,第2次世界大戦後は住宅地として急速に発展。東部には電機,機械などの工場や JR西日本の操車場がある。台地上にはたけのこ採取用のモウソウチクの林が多い。長岡京 (784~794) の内裏がおかれたところで,発掘が進んでいる。長岡宮跡は史跡。また重要文化財の本殿や『日本書紀神代紀』下巻を所蔵する向日神社がある。面積 7.72km2。人口 5万6859(2020)。

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