周揚(読み)シュウヨウ

デジタル大辞泉 「周揚」の意味・読み・例文・類語

しゅう‐よう〔シウヤウ〕【周揚】

[1908~1989]中国の文芸評論家。湖南省の人。本名、周起応。「国防文学」を提唱し魯迅ろじんらと対立整風運動では理論的指導者として活躍する。文化大革命で失脚するが、のちに要職に復帰した。チョウヤン

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「周揚」の意味・わかりやすい解説

周揚
しゅうよう / チョウヤン
(1908―1989)

中国の文芸理論家。本名周起応。湖南(こなん/フーナン)省益陽(えきよう/イーヤン)出身。大夏大学卒業後日本に留学、1930年帰国して左翼作家連盟に参加、前後して共産党入党。30年代中期にかけて上海(シャンハイ)の党員文学者の中心として活動、35年以降抗日統一戦線を目ざし「国防文学」を唱えたが、魯迅(ろじん/ルーシュン)にそのセクト的作風を厳しく批判された。日中戦開始後、延安(えんあん/イエンアン)に赴き、文化運動の要職を歴任。解放後も党宣伝部副部長として文化分野の政治的責任者の地位にあり、戦後の思想キャンペーンのたびに指導的発言をした。文化大革命で打倒されたが77年名誉回復して、以後、党中央委員、文芸界連合主席、社会科学院顧問等の要職に復帰。79年の第四次文学芸術界代表者大会では、戦後の文芸政策全般について、自己批判を含む総括的報告を行った。

丸山 昇]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「周揚」の意味・わかりやすい解説

周揚
しゅうよう
Zhou Yang

[生]光緒34(1908)
[没]1989.7. 北京
中国の評論家,政治家。湖南省益陽の人。字,起応。大夏大学卒業後,日本に留学。中国左翼作家連盟書記をしていたが,1936年同連盟分裂後は文芸家協会を組織,「国防文学」を提唱し,「民族革命戦争の大衆文学」を提唱した魯迅,胡風らとの間に「国防文学論争」を展開した。抗日戦争中は延安大学学長,魯迅芸術学院院長などをつとめ,解放後は文化部副部長,宣伝部副部長として中国の文学芸術界の指導者となり,胡風批判,丁玲批判の先頭に立った。文化大革命で文芸界の黒幕として,「国防文学」の王明の右翼日和見主義との関連,およびその指導方針が批判され,役職から失脚したが,四人組批判後復活し,中国科学院副院長,中国文学芸術界連合会副主席などをつとめた。

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世界大百科事典(旧版)内の周揚の言及

【国防文学】より

…日中戦争の前夜,中国共産党による抗日民族統一戦線結成の呼びかけにこたえて,上海在住の周揚,夏衍(かえん)ら党員文学者グループにより提起されたスローガン。運動推進の母体として1936年に中国文芸家協会を結成したが,それに先だって,従来の文芸界における統一戦線組織である中国左翼作家聯盟(〈左聯〉)を,ソ連にいた王明(陳紹禹)の指示で解散した。…

【中国文学】より

…30年の中国左翼作家聯盟(左聯)の成立によって,プロレタリア文学運動はひとまず定着をみせたが,たちまち国民党の過酷な弾圧に遭い,31年には5人の所属作家が銃殺された。左聯は魯迅を事実上の指導者として厳しい後退戦を続けたが,闘いを通じて若い文芸家を数多く育て,そのうち周揚,夏衍(かえん),田漢,陽翰笙(ようかんしよう)などは,人民共和国成立後も長く中国文芸界の指導的地位についた。この間,瞿秋白(くしゆうはく)は,魯迅のかたわらにあって,左翼文芸理論の確立に貢献した。…

※「周揚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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