和珥氏(読み)わにうじ

改訂新版 世界大百科事典 「和珥氏」の意味・わかりやすい解説

和珥氏 (わにうじ)

日本古代の豪族。丸邇,和邇,丸などとも記す。5,6世紀代の大王(天皇)家と姻戚関係を結び,多くの后妃を出した大和の臣(おみ)姓有力豪族。記紀によれば,綏靖,孝霊,開化,応神,反正,雄略,仁賢,武烈,安閑,欽明,敏達の各天皇の后妃に,和珥氏系出身の女性,またはその后妃が生んだ皇女(例えば安閑皇后春日山田皇女)がなっており,この点で同様の臣姓豪族である葛城氏,蘇我氏よりもさらに多くの后妃を出している。しかし,建波邇安王や忍熊王の反乱を鎮定したという祖先伝承のあるほかは,政治面では和珥氏としての表立った活躍はみられない。始祖は《日本書紀》孝昭天皇68年条では孝安天皇の兄にあたる天足彦国押人(あめのたらしひこくにおしひと)命とする。これに対応する《古事記》の天押帯日子(あめのおしたらしひこ)命は春日臣,大宅臣,粟田臣,小野臣,柿本臣らの祖と記している。春日大宅臣,春日小野臣などの複姓の存在からも,6世紀の欽明朝ごろから,和珥氏の本宗が春日氏を称するようになり,さらに大宅,粟田,小野などに分枝したと推定される。本拠は現在の天理市櫟本いちもと)町,和邇町周辺とされるが,そこから北さらに西にかけて柿本,小野,大宅,春日の同族,および丸部の分布が認められるので,奈良盆地東北部一帯に勢力を有したとみられる。なお史料の示すところでは,山城,近江,および東海,北陸にとくに勢力の伸長がみられる。
粟田氏 →小野氏 →春日氏
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「和珥氏」の意味・わかりやすい解説

和珥氏
わにうじ

日本古代の豪族名。丸邇、和邇、丸などとも書く。4世紀から6世紀にかけて奈良盆地北東部一帯(旧大和(やまと)国添上(そうのかみ)、添下(そうのしも)両郡)に勢力をもった臣(おみ)姓有力豪族で、部曲(かきべ)は大和、山城(やましろ)、近江(おうみ)諸国から中部・中国地方にかけて分布する丸部(和邇部)がある。大和国家成立期には葛城(かずらき)氏などとともに重要な役割を果たしたと思われるが、崇神(すじん)朝に建波爾安(たけはにやす)王、仲哀(ちゅうあい)朝に忍熊(おしくま)王を討伐したという伝承以外には明確な説話伝承が少ない。始祖は孝昭(こうしょう)天皇の皇子天足彦国押人命(あめのたらしひこくにおしひとのみこと)(天押帯日子(あめのおしたらしひこ)命)とされ、欽明(きんめい)朝ころには春日山麓(かすがさんろく)に本拠を移し(分住したともいわれる)、春日氏を称する一族を筆頭に、大宅(おおやけ)、粟田(あわた)、小野、柿本(かきのもと)などの諸氏に分枝・分住した。5、6世紀に大王(天皇)家の后妃(こうひ)となった者は、後の蘇我(そが)氏と並び最多を数え、応神(おうじん)、反正(はんぜい)、雄略(ゆうりゃく)、仁賢(にんけん)、継体(けいたい)、欽明、敏達(びだつ)などの后妃となっている。本拠地は天理市和爾町、櫟本(いちのもと)町付近。式内社和爾坐赤坂比古(わにいますあかさかひこ)神社、和爾下(した)神社を奉斎した一族と考えられており、後漢(ごかん)中平年間(184~189)の紀年銘をもつ鉄刀を出土した東大寺山古墳を含む櫟本古墳群はこの一族の墓所と推定され、奈良市佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群も関係があるのではないかといわれる。系図として「和珥氏系図」(駿河浅間神社旧蔵)がある。

[弓野正武]

『岸俊男著『日本古代政治史研究』(1966・塙書房)』

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世界大百科事典(旧版)内の和珥氏の言及

【菟道稚郎子】より

…応神天皇の太子。母は和珥(わに)氏の宮主宅媛(やかひめ)(《古事記》では矢河枝比売(やかわえひめ))。天皇の死後,儒教思想によって兄の仁徳天皇に位を譲り死ぬ。…

※「和珥氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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