咸豊帝(読み)かんぽうてい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「咸豊帝」の意味・わかりやすい解説

咸豊帝
かんぽうてい
(1831―1861)

中国、清(しん)朝第9代の皇帝(在位1850~61)。名は奕詝(えきちょ)。諡(おくりな)は顕皇帝。廟号(びょうごう)は文宗年号によって咸豊とよばれる。道光帝の第4子。生母は鈕祜禄(ニオフル)氏(戸部尚書(こぶしょうしょ)の布彦達賚(ブヤンダライ)の娘)で、咸豊帝が即位すると成皇后に追封された。即位したその年、洪秀全(こうしゅうぜん)が広西で挙兵して翌1851年に太平天国建国を宣言、続いて捻(ねん)党が反乱して太平天国に呼応、ロシアの南進に伴うイリの通商条約の締結と、中国は内外ともに多事多難な時期であった。

 太平天国軍は1853年に南京(ナンキン)を天京として勢力を拡大したが、満州人官僚は政治的、軍事的に無力さを露呈し、反満活動を鎮圧するために漢人官僚の曽国藩(そうこくはん)、左宗棠(さそうとう)、李鴻章(りこうしょう)などを起用し、彼らの編成した湘軍(しょうぐん)、楚軍(そぐん)、淮軍(わいぐん)などが使用された。しかし、この時代には鎮圧できなかった。56年のアロー戦争契機に、イギリス、フランスはふたたび武力進出を開始し、その結果、天津(てんしん)条約、北京(ペキン)条約を締結したが、条約批准問題からイギリス・フランス連合軍は天津を占領、北京郊外の円明園離宮を略奪、北京を占領するに至った。帝は熱河(ねっか)に逃れ、北京の政治は弟の恭親王奕訢(きょうしんおうえききん)にゆだねられ、彼の手で条約の批准が行われた。また、この混乱に乗じてロシアは、58年に締結したアイグン条約で共有地と定められた沿海州(現沿海地方)を獲得した。帝の熱河での病没に伴い、幼少の同治帝の生母西太后(せいたいこう)が権力を掌握した。

[細谷良夫]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「咸豊帝」の意味・わかりやすい解説

咸豊帝
かんぽうてい
Xian-feng-di; Hsien-fêng-ti

[生]道光11(1831).北京,円明園
[没]咸豊11(1861).熱河
中国,清朝の第9代皇帝 (在位 1850~61) 。名は奕ちょ (えきちょ) 。廟号は文宗。道光帝の第4子。生母は全貴妃ニオフル氏。道光 30 (50) 年道光帝の死により即位し,翌年から年号を咸豊と改めた。即位の年,太平天国の乱が起り,咸豊3 (53) 年には南京を攻略され,反乱は拡大してほぼ中国全土に及び,在世中に平定できなかった。同6年アロー戦争が起り,同8年天津条約を結んだが,再び戦いが始り,同 10年英仏連合軍は円明園を焼払い,北京に迫ったので,北京条約を結んで講和した。それに先立ち,連合軍の進撃をみて帝は熱河の離宮に避難し,同地で病死した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「咸豊帝」の解説

咸豊帝(かんぽうてい)
Xianfengdi

1831~61(在位1850~61)

の第9代皇帝。道光帝の第4子。廟号は文帝。即位するとまもなく太平天国の乱が起こり,その鎮定をみないうちにアロー戦争が起こり,1860年,英仏連合軍の北京攻撃にあって熱河(ねっか)に逃げ,ここで病没した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「咸豊帝」の解説

咸豊帝
かんぽうてい

1831〜61
清の第9代皇帝,文宗(在位1850〜61)
宣宗道光帝の第4子。即位とともに太平天国の乱が起こり,また1856年にはアロー戦争が起こって,58年天津 (てんしん) 条約を結んだ。1860年イギリス・フランス両軍の北京占領により熱河 (ねつか) に逃れた。帝はこの地で酒色にひたり,皇位継承者も未定のうちに病死。東太后は帝の皇后,西太后 (せいたいこう) は側室。

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