哱拝の乱(読み)ボハイのらん

改訂新版 世界大百科事典 「哱拝の乱」の意味・わかりやすい解説

哱拝の乱 (ボハイのらん)

中国,明末に寧夏鎮(現,寧夏回族自治区銀川市)で起きた反乱事件。引き続いて起きた豊臣秀吉の朝鮮の役,ミヤオ(苗)族土司楊応竜の反乱とともに万暦の三大征の一つに数えられる。哱拝はモンゴル系の一部族の出身で,嘉靖年間(1522-66)に逃れて明朝に来降し,その後数回の戦功によって1589年(万暦17)寧夏鎮の副総兵に任ぜられ,子の哱承恩がその職を継いだ。91年洮河(とうが)に出征があった際,哱拝父子は願い出て従軍したが,巡撫の党馨(とうけい)はこれをにくんで軍馬を支給しなかった。党馨に対しては不満をもつ軍人が多かったが,たまたま辺境守備兵に衣糧の支給がとぎれたことが発端となって92年春,千総の劉東暘(りゆうとうよう)らが反乱を企て,これに哱拝父子が加わった。反乱軍は党馨を殺害して勢力をひろげ,一時はオルドスのモンゴル軍を糾合して陝西全域を震撼させた。明朝は当初対策に手間どったが,提督李如松(りじよしよう)が討伐に赴き,同年9月御史梅国楨が哱承恩に劉東暘を殺させて自贖させる策に出た。哱承恩はこれに応じ謝罪に赴いたがかえって捕らえられ,哱拝も急襲をうけて自殺し反乱は鎮圧された。哱拝の乱をはじめとする三大征は明朝財政を疲弊させ,増税問題〈礦税(こうぜい)の禍〉を引き起こした。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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