啓迪院(読み)けいてきいん

世界大百科事典(旧版)内の啓迪院の言及

【医学】より

…戦国時代の有名人の多くも,病気のときに彼の診療を受けている。彼はまた,京都に私学の啓迪(けいてき)院を設けて,医学教育をおこなった。門人800人ともいい,また3000人ともいう。…

【曲直瀬道三】より

…翠竹院の号は,もと雖知苦斎(すいちくさい)と称していたのを,正親町天皇より天下万民を救う医業に苦の字があるのは好ましくないと同音の号を賜ったという。学僧として足利学校に遊学中,田代三喜の名声をきき三喜に師事して中国金元医学(とりわけ李朱医学)を学び,1545年(天文14)39歳で京都に帰り翌年還俗して医を専業とし,李朱医学の日本化をはかり,医学校の啓迪(けいてき)院を開いて全国から医生を集め新しい医学教育を行い,その学風は全国をおおい当時の医界の天下者となった。将軍足利義輝に重用され,医学面だけでなく茶道,香道の文化面を通じて多くの戦国大名と交友があり厚遇された。…

※「啓迪院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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