喜光寺(読み)きこうじ

日本歴史地名大系 「喜光寺」の解説

喜光寺
きこうじ

[現在地名]奈良市菅原町

菅原すがはら神社の南西にあり、別名菅原寺という。清涼山と号し、法相宗本尊阿弥陀如来行基の開基と伝え、「行基年譜」によれば養老五年(七二一)に寺史乙丸が「己の居宅を以て、菩薩に施し奉り、即ち、精舎を建て菅原寺と号す」といい、その翌年二月一〇日に工を起こし、平城右京三条三坊、九―一〇坪・一四―一六坪に及んでいたと伝える。また「菅原寺記文遺戒状」には元明天皇の勅請により霊亀元年(七一五)に菅原寺を建立して本寺となし、四九院をもって末寺としたとある。行基は晩年に当寺で病み、天平二一年(七四九)二月二日の夜、諸院を弟子光信に委嘱して当寺東南とうなん院で没した(舎利瓶記・行基年譜)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「喜光寺」の意味・わかりやすい解説

喜光寺
きこうじ

奈良市菅原(すがはら)(現あやめ池南)町にある法相(ほっそう)宗薬師寺派の寺。通称は菅原寺(すがわらでら)。山号は清涼山(しょうりょうざん)。寺伝では715年(霊亀1)菅原氏の菩提(ぼだい)寺として建立されたと伝えるが、一説に721年(養老5)元正(げんしょう)天皇が寺史(てらのふびと)乙磨(おとまろ)の旧宅を行基に施与したのを、行基は地名にちなんで菅原寺と号し、畿内(きない)49院の本寺として鎮護国家を祈り仏法道場となして教学研鑽(けんさん)したと伝える。のち聖武(しょうむ)天皇行幸の際、本尊阿弥陀仏(あみだぶつ)の眉間(みけん)から瑞光(ずいこう)が放たれ、歓喜光寺の寺号を天皇から賜ったという。

 その後隆替を重ね、興福寺一乗院の流れに属し法相を伝えたが、1897年(明治30)以降は法相宗薬師寺派に属して現在に至っている。寺域は荒廃し、わずかに金堂を残すのみである。金堂は、東大寺大仏殿を建立するにあたり、その10分の1の大きさでつくられたと伝え、「試みの大仏殿」ともよばれ、本尊の阿弥陀如来坐像(にょらいざぞう)とともに国の重要文化財に指定されている。

[里道徳雄]

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百科事典マイペディア 「喜光寺」の意味・わかりやすい解説

喜光寺【きこうじ】

奈良市菅原町にある法相宗の寺。菅原寺とも。本尊阿弥陀如来。721年寺史(てらのおびと)乙丸の旧宅を寄進された行基が寺とし,畿内49院の本寺として布教の中心となったという。中世興福寺一乗院に属し,江戸時代の寺領30石。金堂(重要文化財)は東大寺大仏殿の雛形としてその10分の1のサイズで造られたという伝えがある。

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デジタル大辞泉プラス 「喜光寺」の解説

喜光寺

奈良県奈良市菅原町にある法相宗の寺院。行基の開創と伝わる。山号は清涼山、本尊は阿弥陀如来。行基が東大寺大仏殿を建立する際に参考にしたとされる本堂は「試みの大仏殿」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されている。

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