翻訳|Wailing Wall
ヘロデ王(前37―前4)がエルサレム神殿の増改築を行った際、構築した神殿の丘西側擁壁の一部。現在残っている壁の地上部分は、長さ約50メートル、高さ約20メートル。頂までの石積み43段のうち上部17段は後代のものであるが、下部の26段は、長さ4~5メートル、高さ1メートルもの規模の、ヘロデ時代特有の縁どりのある切り石を用いている。現在下部の15段はまだ地表下に埋没している。ローマに対する絶望的な反乱(132~135)が悲劇に終わったのち、ユダヤ人はエルサレムに立ち入ることを禁止された。ようやく4世紀に彼らは年1回、神殿が破壊された日と伝えられるアブの月9日に神殿の廃墟(はいきょ)を訪れて、神殿の消失と国の滅亡を嘆くことが許された。のちに神殿跡にイスラムの聖所が建設されるに及んで、嘆きの場所は西壁に移り今日に至っている。現在ではユダヤ人のたいせつな聖地になっている。1948年エルサレムは、旧市がヨルダン、新市がイスラエル側に分割され、この壁は前者側に属したが、67年第三次中東戦争においてイスラエルがこれを占領した。
[石川耕一郎]
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…この区域はもとソロモンの建立した第一神殿,またバビロン捕囚後に再建された第二神殿があった場所で,モリヤMoriahの丘とも呼ばれた。ハラム・アッシャリーフを囲む東・南・西側の壁は,ヘロデ王時代以来のものと見られるが,その西壁(ハ・コテル・ハマーラウィー)には第一神殿の遺構があると考えられ,近代においてユダヤ教徒はこれを〈嘆きの壁〉として特に重要視するようになった。旧市街にはイエスの十字架の死を記念する聖墳墓教会(ゴルゴタの丘の跡にあるとも信じられている)をはじめ,キリスト教の聖地が多数存在する。…
…1929年に起こった〈嘆きの壁〉をめぐるユダヤ人とパレスティナ・アラブとの紛争。ユダヤ教徒にとって,紀元70年にローマ軍によって破壊されたソロモンの神殿の再建は最重要な課題であった。…
※「嘆きの壁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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