四万十(読み)しまんと

精選版 日本国語大辞典 「四万十」の意味・読み・例文・類語

しまんと【四万十】

高知県南西部の市。平成一七年(二〇〇五中村市西土佐村が合併して成立。四万十川の中・下流域を占める。

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デジタル大辞泉 「四万十」の意味・読み・例文・類語

しまんと【四万十】

高知県南西部にある市。四万十川の中下流域を占める。イグサアオノリが特産。平成17年(2005)4月、中村市、西土佐村が合併して成立。人口3.6万(2010)。

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改訂新版 世界大百科事典 「四万十」の意味・わかりやすい解説

四万十[市] (しまんと)

高知県南西部の市。2005年4月中村(なかむら)市と西土佐(にしとさ)村が合体して成立した。人口3万5933(2010)。

四万十市南東部の旧市。1954年市制。人口3万4968(2000)。四万十川下流に位置し,その支流中筋川の流域を中心とする低湿な中村平野が東西にのび,四万十川と南流する後(うしろ)川の河岸に平地があるが,市域の大部分は山地である。四万十川の自然堤防上に縄文晩期~弥生初期の入田(にゆうた)遺跡があり,水稲栽培の痕跡が認められている。市街地地表下には縄文晩期の中村貝塚が埋蔵される。鎌倉初期,幡多郡一帯は九条家領(のち一条家領)の荘園幡多荘となるが,当地はその本郷(本荘)であった。1468年(応仁2)前関白一条教房は応仁の乱の戦火を避けて当地に下向,〈中村御所〉〈中村館〉とよばれる居館を構え,家領幡多荘の維持と町づくりに努めた。以後,長宗我部氏に滅ぼされるまで土佐一条氏の支配が続く。四万十川と後川を桂川と鴨川に見立て,京を模した町づくりが進められて,延暦寺に擬せられた石見寺,石清水(いわしみず)八幡を勧請した不破(ふば)八幡宮も建立された。その外港は四万十川河口の下田であった。

 一条氏は京畿政権と密接な連係を保ち,また文明期(1469-87)以後,細川氏・堺衆経営の日明貿易船が南海路を経るようになったこともあって,堺商人,伊勢御師などの往来も繁くなり,中村の都市的発展は促進された。1574年(天正2)一条氏を豊後に追った長宗我部元親は弟親実を中村城に入れ,以後,城監がこの地を支配した。《長宗我部地検帳》によれば,中村御所の周辺に羽生,宮田など公家風の人名を冠した小路が15あり,商職人や市の存在もわずかに残り,かつて中村御所を核として形成された小城下町的様相が推察される。しかしこの街区北方には,歴然とした商職人の市町が存在し,中村城はその北方にあって,景観は一条氏時代とはかなり変貌をとげている。その後,土佐藩の支封中村藩が置かれたが,1689年(元禄2)除封。96年土佐藩の幡多郡役所が置かれた。下田は江戸時代も土佐西部の要港であり,町場を形成,商港として栄えた。

 中村平野ではかつてコリヤナギ(杞柳(きりゆう))の栽培が盛んであったが現在はイグサが増加,四万十川河口近くではショウガ栽培など施設園芸もみられる。同川ではアユ,ウナギなどの川魚漁が行われ,河口部ではアオノリ類の生産も多い。山間部では薪炭・用材生産が多かったが,現在はシイタケ栽培が増加している。中村城跡は為松(ためまつ)公園となり,桜の名所として知られる。市域を東西に貫く国道56号線に,北から439号線,南から321号線が合する。1970年国鉄中村線(現,土佐くろしお鉄道)が開通した。
執筆者:

四万十市北西部の旧村。旧幡多(はた)郡所属。人口3816(2000)。四万十川中流域に位置し,中央部を南流する四万十川に北西から吉野川,目黒川,黒尊(くろそん)川が合流する。北西部は愛媛県に接する。ほとんどが山林で,古くは下山郷といわれ,良材を産し,〈下山材木〉の名は中世の記録(《大乗院寺社雑事記》)にもみえる。とくに黒尊川最上流,黒尊一帯の美林では江戸初期,隣接する伊予宇和島藩による盗伐事件もあった。四万十川と吉野川が合流する江川崎は,四万十川河口の下田(旧中村市)との間に舟運が通じ,重要な交通の拠点であった。養蚕や用材生産が行われるが,シイタケや栗,イチゴの栽培が盛んで,畜産もふえている。1974年国鉄(現JR)予土線が開通し,並行して走る国道381号線とともに愛媛県宇和島市との結びつきが深い。
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四万十[町] (しまんと)

高知県南西部,高岡郡の町。2006年3月窪川(くぼかわ)町,大正(たいしょう)町と十和(とおわ)村が合体して成立した。人口1万8733(2010)。

四万十町東部の旧町。旧高岡郡所属。人口1万4842(2000)。四万十川の上流域に位置し,南東部は土佐湾に面する。かつてこの地域一帯は仁井田郷といわれ,戦国時代は仁井田五人衆の支配下にあった。北東から南西へ緩傾斜する窪川台地を四万十川と支流の仁井田川,東又川が刻み,流域一帯には水田が開かれ,古くから良質の仁井田米の産地として知られる。近年は養豚やタバコ,ショウガの栽培も盛ん。北部山地で木材,シイタケの生産,南東の海岸部では施設園芸や大敷漁が行われる。四国八十八ヵ所第37番札所の岩本寺がある。JR土讃線,予土線,土佐くろしお鉄道線,国道56号,381号線が走り,須崎市,四万十市,宇和島市へ通じる交通の分岐点となっている。

四万十町中部の旧町。旧幡多(はた)郡所属。人口3429(2000)。四万十川上流域に位置し,北西端は愛媛県に接する。当町から西の旧十和村にかけての一帯はかつて上山(かみやま)郷とよばれ,熊野別当田辺の湛増父子が来住し,その子孫田那辺氏が開発したといい,中心集落の田野々には同氏勧請という熊野神社,菩提寺であったという五松寺がある。また,西流する四万十川(仁井田川)と南流する檮原(ゆすはら)川が田野々で合流する。ほぼ全域を山林が占める。江戸時代には藩の御用紙を産したが,現在は用材のほか,シイタケ,茶,栗などを産し,製材業も行われる。渓流にはアユが多く,檮原川上流に下津井渓谷,市ノ又には淡水魚センターがある。田野々の旧竹内家住宅は重要文化財。JR予土線が通る。

四万十町西部の旧村。旧幡多郡所属。人口3573(2000)。西流する四万十川の中流域に位置し,北は愛媛県に接する。四万十川が激しく蛇行するところで,かつて上山郷といわれた地域に含まれる。村域のほとんどが山林で,江戸時代には土佐藩の御用紙を産し,以前は木炭の産出が多かったが,現在は用材のほか,シイタケ栽培が盛ん。ほかに養蚕や茶,トウモロコシなどを産する。十川(とおかわ)や昭和地区の産土(うぶすな)神社の秋祭に奉納される十和大神楽(幡多神楽)は国の重要無形民俗文化財〈土佐の神楽〉の一つ。古城と地吉地区には盆行事の大念仏が伝わる。1974年に始められた四万十川での〈こいのぼりの川渡し〉が有名。JR予土線が通じる。
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