四天王寺(大阪市)(読み)してんのうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「四天王寺(大阪市)」の意味・わかりやすい解説

四天王寺(大阪市)
してんのうじ

大阪市天王寺区にある寺。荒陵山(こうりょうざん)敬田院(きょうでんいん)と号し、荒陵寺(あらはかでら)、難波大寺(なにわだいじ)、御津寺(みとでら)、堀江寺(ほりえでら)、天王寺(てんのうじ)などともよばれる。初め八宗兼学、のち天台宗に属したが、1949年(昭和24)独立して和宗の本山となり、創建者聖徳太子の「和を以て尊し」とする精神を教学の中心とした。聖徳太子が蘇我馬子(そがのうまこ)とともに排仏派物部守屋(もののべのもりや)討伐のとき、戦勝を祈ってヌルデの木で四天王像をつくり、587年(用明天皇2)勝利を得たのを謝して、難波玉造(たまつくり)の岸上に建てたのが当寺の初めといわれ、593年(推古天皇1)現在地に移された。日本最初の官寺とされる。当時大陸に行われた中門、塔、金堂講堂が南北一直線上に並ぶ「四天王寺式伽藍(がらん)配置」で、法隆寺(ほうりゅうじ)とともに飛鳥(あすか)時代寺院建築の古制を示す一典型とされる。寺域は3町(327メートル)四方を画し、施薬院(せやくいん)、療病院(りょうびょういん)、悲田院(ひでんいん)、敬田院(けいでんいん)の四箇院(しかいん)を置いて人々の救済に努めた。それらは現代の福祉事業の先駆とされるが、その費用には物部氏から没収した財産があてられたといわれる。

 早くから皇室の尊崇を受け、また外交上でもわが国が大陸に劣らぬ文化をもつことを誇示する役割を果たしたが、しだいに貴族、とりわけ女性の信仰を集めた。中世以降は、当寺の西門(石鳥居)が極楽浄土(ごくらくじょうど)の東門に面していると信じられ、極楽往生(おうじょう)を願う人々が、春秋彼岸(ひがん)の中日にこの地の日没の太陽を観じて西方極楽を想う日想観(にっそうかん)の修行に適した場所とする風習が盛行し、広く庶民の習俗となり多くの参拝者を集めたが、現代も彼岸参りとして続いている。

 堂塔は、836年(承和3)の落雷、1576年(天正4)織田信長による焼討ち、1934年(昭和9)の台風、1945年の空襲など、しばしば災害を受けて当初のものはないが、配置と様式は古制を受け継いで、第二次世界大戦後コンクリート造で完備された。なお、当地からは法隆寺若草伽藍址(し)出土の古瓦(こがわら)と同形式の瓦が発見されている。寺宝は、平安時代の『扇面法華経(せんめんほけきょう)冊子』5帖(じょう)98葉、懸守(かけまもり)、飛鳥時代の直刀と七星剣(しちせいけん)、『四天王寺縁起(えんぎ)』2巻、威奈大村(いなのおおむら)の骨蔵器などの国宝、救世観音菩薩(ぐぜかんのんぼさつ)像、聖徳太子絵伝など国の重要文化財のほか、近年制作された中村岳陵(がくりょう)筆の壁画など数多い。現在、大学をはじめとする四天王寺学園、四天王寺病院などを経営し、聖徳太子の精神を体して活動している。4月22日聖徳太子忌の聖霊会(しょうりょうえ)には舞楽大法要が行われる。

[若林隆光]

『聖徳太子奉讃会編『聖徳太子と日本文化』(1951・平楽寺書店)』『亀井勝一郎著『聖徳太子』(1957・角川新書)』


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