国共合作(読み)コッキョウガッサク(英語表記)Guó gòng hé zuò

デジタル大辞泉 「国共合作」の意味・読み・例文・類語

こっきょう‐がっさく〔コクキヨウ‐〕【国共合作】

中国国民党中国共産党が結んだ二度の協力関係。第一次は1924年から1927年までで、国民革命の推進に貢献。第二次は1937年の日中戦争の勃発から日本の敗戦後の1946年まで続いた。

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精選版 日本国語大辞典 「国共合作」の意味・読み・例文・類語

こっきょう‐がっさく コクキョウ‥【国共合作】

中国国民党と中国共産党との提携。第一次は国民政府が実現した一九二四~二七年、第二次は西安事件後の一九三七~四六年で、抗日統一戦線を結成して日本に抵抗した。〔増補改訂新聞語辞典(1936)〕

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改訂新版 世界大百科事典 「国共合作」の意味・わかりやすい解説

国共合作 (こっきょうがっさく)
Guó gòng hé zuò

中国国民党と中国共産党との〈合作〉(提携)をいう。前後2回実現して中国現代史の展開に決定的な意義をもった。

コミンテルンは,1920年,帝国主義との闘争において民族・植民地解放運動と同盟する戦略を決定し,中国における唯一のブルジョア革命政党,中国国民党に働きかけた。国民党の指導者孫文はソ連の援助を受け入れたが,中国共産党との合作においては党と党との提携ではなく,中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合作の形式を要求した。1924年1月,国民党第1回全国大会は〈連ソ・容共・労農援助〉の新政策を決定し合作は正式に発足した。孫文の死後もソ連軍政顧問団の支援と労農の組織化にあたった中国共産党の努力で広東国民政府の基盤は急速に強化されたが,国民党内には左翼勢力の伸張を恐れ,蔣介石を中心とする反共・限共の動きが公然化した。北伐戦争が開始され国民政府が武漢に進出した27年4月,蔣介石らは上海,広東で反共クーデタを起こして国民政府を分裂させ,武漢国民政府によった国民党左派も7月,反共に転じて国共合作は崩壊した。中国共産党は武装闘争を開始し,10年間にわたる国共内戦が続く。

1935年,コミンテルンは従来の極左路線を転換し,反ファッショ統一戦線戦術を採択,中国共産党に指示して内戦の停止,一致対外を呼びかける八・一宣言を発せしめた。長征を終えて陝西北部の根拠地に到着した中国共産党は統一戦線政策の具体化に乗りだし,36年9月には逼蔣抗日(蔣を抗日に追いこむ)の方針を確定,西安事件の平和的解決によってまず蔣に内戦の継続を断念させた。その後,合作の条件をめぐって国共両党の交渉は難航したが,37年,日中戦争勃発後の9月23日,国民政府が中国共産党の合法的地位を承認し,合作が実現した。中国共産党は土地革命を停止し,ソビエト政府を解消して陝甘寧特区政府に改編し,工農紅軍は国民政府軍の建制によって第八路軍3個師に改編,江南に残留した遊撃隊は別に新編第四軍を編成した。国民党は政治犯を釈放し,38年には国民参政会を設置し,中国共産党および各党,各界の人士を招いて諮問機関とした。だが蔣介石独裁の反動性は変わらず,武漢失陥(38年10月)後は日本軍の後方で抗日根拠地を拡大し,民主改革を実施する中国共産党を憎悪し,39年,41年,43年の3回にわたり,八路軍,新四軍,抗日根拠地に武力攻撃を発動するなど,国共合作を決裂寸前にまで追いこんだ。これに対し中国共産党は連合もし,また実力で対処しつつ,蔣介石の抗日放棄,反共優先の利敵行為を大衆的に暴露し,国民党支配地域において内戦再開反対の世論を盛りあげ,抗日民族統一戦線=国共合作の方針を日本軍の降服にいたるまで維持することができた。

 なお81年,中国共産党は台湾に逃れた国民党政権に対し,民族の平和的統一のため第3次国共合作を呼びかけたが,その成否はまだ予測を許さない。
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百科事典マイペディア 「国共合作」の意味・わかりやすい解説

国共合作【こっきょうがっさく】

中国国民党と中国共産党の提携・協力体制。1924年―1927年,1937年―1946年の2回。第1次は孫文が五・四運動以後追求し,連ソ・容共・工農扶助政策のもとに推進。中共党員の個人的国民党入党を容認,国民党改組で実現。国民革命を指向した。第1次北伐後の1927年武漢政府の中共党員追放を機に分裂。第2次は1935年8月の八・一宣言,1936年の西安事件を機に進展し,1937年7月の日中戦争勃発(ぼっぱつ)により抗日戦遂行の立場から合作が再現。第2次大戦後1946年の内戦再開により分裂した。
→関連項目何香凝減租減息抗日戦争周恩来蒋介石西山派孫文譚平山中華人民共和国中華民国中国共産党中国国民党中国農民協会南京国民政府二五減租八路軍武漢政府辺区毛沢東ヨッフェ四・一二クーデタ李大【しょう】

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「国共合作」の意味・わかりやすい解説

国共合作
こっきょうがっさく

中国国民党と中国共産党が結んだ二度の協力関係をいう。第一次(1924~27)は北方軍閥と、その背後にいる帝国主義列強に対して、第二次(1937~45)は日本帝国主義に対して統一戦線が組まれたもので、前者は国民革命(北伐)において、後者は抗日戦争において決定的役割を果たした。

[野澤 豊]

第一次

第一次国共合作は、中国共産党員の国民党への個別加入の形をとった。アジアの民族運動を重視したコミンテルンの援助を得て、孫文(そんぶん/スンウェン)は1922年から国民党の改組に着手し、広東(カントン)に革命政権を再建するとともに、これを大衆的基盤にたつ革命政党へ脱皮させようとした。成立してまもない中国共産党も、コミンテルンの指導の下に、民族革命政党との提携を決めた。24年1月の国民党一全大会で、連ソ・容共・工農扶助の三大政策が採用され、国共合作が発足した。同年秋、孫文は国民会議の開催を提唱して北上し、それに伴って労農運動は飛躍的な発展を遂げた。国民革命は進展し、北伐の過程で27年武漢に革命政権が樹立された。その間、革命勢力の内部で対立が強まり、蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)は国民党右派と結び、帝国主義列強、浙江(せっこう)財閥を背景に反革命に転じ、国民党左派や中国共産党と手を切って南京(ナンキン)政府をたて、全国制覇を目ざしたことから、新軍閥とよばれるに至った。武漢政府の崩壊後、中国共産党は右翼日和見(ひよりみ)主義を清算し、土地革命を進め、江西ソビエトを成立させて、南京政府に対抗した。そこから、10年にわたる国共内戦の勃発(ぼっぱつ)となった。

[野澤 豊]

第二次

第二次国共合作は、国共両党の対等な立場での政策協定という形をとった。国民党軍の江西ソビエトに対する包囲を脱して長征に移った中国共産党は、1935年の八・一宣言で、満州事変後に強まった日本の中国侵略に対して、抗日民族統一戦線を提唱した。同年の一二・九運動や、翌年の西安(せいあん)事件を経て、内戦停止、一致抗日の声は強まり、国民党も政策転換を余儀なくされたが、日本の先制攻撃で37年7月、日中戦争開始とともに、国共合作が具体化した。陝北(せんほく)ソビエトは辺区政府となり、紅軍は八路軍、新四軍と改称されて前線に向かった。国民党は奥地に重慶(じゅうけい)政府をたて、辺区包囲の態勢をとるようになったが、中国共産党はゲリラ戦を展開して、日本軍の背後に抗日根拠地を拡大していった。45年、このような戦線配置のまま、国共両党は太平洋戦争の終結を迎え、その生死を賭(か)けた再度の内戦に突入することになった。

 内戦が決着して、1949年に中華人民共和国が成立し、国民党は台湾に政権を樹立して今日に至っているが、しだいに北京(ペキン)側からの第三次国共合作の呼びかけが強まっているのが現状である。

[野澤 豊]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「国共合作」の意味・わかりやすい解説

国共合作
こっきょうがっさく
Guo-gong he-zuo

中国革命史上最も重要な2政党,中国国民党中国共産党による連携協力。両党は,革命の進展状況を反映して対立と協力を繰返した。中国共産党は,1921年7月創立当初はその勢力が微弱であったため,国民党との合作を目指した。これは,20年 V.レーニンがコミンテルン第2回大会で提起した「民族および植民地問題に関するテーゼ」の植民地解放闘争におけるブルジョアジーの役割重視によるものであった。国民党も孫文=ヨッフェ共同宣言 (1923) を経て両党の合作を承認し,共産党員がその党籍を保持したまま,個人として国民党に参加する形での第1次国共合作が成立した。共産党員はこの間,国民党内部で指導的役割を果しつつ第1次国内革命戦争 (24~27) を戦い,同時に労働運動,農民運動を指導して革命運動における影響力を急速に強めたが,これが国民党内左右両派の対立を招いた。 27年4月,蒋介石を頭とする右派は,上海で反共クーデターを起して多数の共産党員,労働者を虐殺,第1次国共合作は終焉した (→上海クーデター ) 。この国共合作の崩壊は共産党に壊滅的打撃を与え,従来の政策に対する根本的な自己批判を迫られた。第2次国共合作は,毛沢東が共産党の指導権を掌握することにより党の後退局面を止揚し,日本軍の華北侵略を背景に西安事件をきっかけとして実現した。中国工農紅軍は国軍の新四軍,八路軍に改編されたが,しばしば最も困難な戦局を担当させられ,実質的には内部対立が激化していった。これは抗日戦勝利後も続き,毛沢東,蒋介石の重慶交渉 (45.8.) は失敗に終り,全面的内戦に発展,49年 10月,中華人民共和国の成立で共産党の勝利が確定し,国民党の指導部は台湾に逃亡した。 81年中国の全国人民代表大会委員長,葉剣英が第3次国共合作を提起,1980年代以降,半官半民の対話と交流が始っている。しかし,台湾は三不政策を堅持,また中国は台湾の民主化や野党の勢力拡大により国民党主導の交渉に不安を抱き,あらゆるレベルにおける交渉を主張している。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「国共合作」の解説

国共合作(こっきょうがっさく)

中国国民党中国共産党との協力体制をいう(1924~27年,37~46年)。中国共産党は1922年国民党との合作を決め,国民党は24年共産党党員の個人の資格による国民党入党を認め(党内合作),大衆的基盤を固め,国民革命を推進することができた。しかし労農運動の高揚は,国民党上層部をおびやかし,27年7月ついに国共は分裂した。30年代前半の日本の満洲モンゴル,華北への進出は,中国人の間に国共内戦反対,一致抗日の要求をたかめ,西安事件を契機に国共は合作への道に進んだ。日中戦争中,国民党は再三国共関係を悪化させたが(皖南(かんなん)事件など),分裂に至らなかった。戦後の46年7月,ついに内戦となり国共は分裂した。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「国共合作」の解説

国共合作
こっきょうがっさく

2回にわたる中国国民党と中国共産党との提携関係。

1第1次(1924.1~27.7)。孫文がコミンテルンの意見をうけいれ,中国共産党員が個人的に国民党に入党することで実現した。1924年1月の国民党第1回大会は,連ソ・容共・農工扶助の政策を定め,国民革命をめざした。27年蒋介石の反共クーデタをへて,武漢政府内の共産党員は排除されて第1次合作は終了。

2第2次(1937.9~45.8)。1936年12月の西安事件により,内戦停止・一致抗日の主張を確認。翌年7月に日中戦争が勃発すると国共両党は急速に接近し,中共軍が八路軍に改編され,周恩来・朱徳ら中共代表が国防最高会議に参加する形で合作が実現した。日本降伏後,中国の支配権をめぐる対立から国共内戦がおこり,合作は崩壊した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「国共合作」の解説

国共合作
こっきょうがっさく

中国国民党と中国共産党との提携によって民族的統一をはかる政策
第1次国共合作は,孫文の提唱で,1924年国民党の改組とともに第1回全国代表大会で決定され,共産党員の国民党加入が認められた。孫文の死後,これを基盤に労農運動が発展し,1926年北伐が開始されたが,27年4月蔣介石は上海でクーデタを断行した。これと対立した武漢政府ものちに反共宣言を発し,国共分裂となった。第2次国共合作は,満州事変以後の日本の進出に対処して,共産党の八・一宣言以後,内戦停止・一致抗日の世論が高まり,1936年西安事件を契機に37年日中戦争が起こると,抗日民族統一戦線が結成された。中華ソヴィエト政府は中華民国特区政府に,紅軍は八路軍に改組し,地主の土地没収は停止した。1941年以後国共間の主導権争いが強まり,大戦終結後,国共内戦が再開された。

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旺文社日本史事典 三訂版 「国共合作」の解説

国共合作
こっきょうがっさく

中国国民党と中国共産党が前後2回にわたって結んだ提携
〔第1回〈1924〜27〉〕国民党の孫文は「連ソ・容共・扶助工農」を綱領として共産党員が個人の資格で国民党に入党する形で合作を成立させた。'27年2月国民党左派と結んだ共産党が武漢政府をつくると,同年4月蔣介石は上海でクーデタを断行,共産党を弾圧して南京に国民政府を樹立。これと対立した武漢政府ものちに反共宣言を発し,国共合作は破れた。〔第2回〈'37〜46〉〕'36年の西安事件により国共停戦がなり,'37年盧溝橋事件を契機に抗日民族統一戦線が結成され,再び合作が成立した。抗日戦争中,共産党は着実に勢力を伸ばし,国民党との反目が続いたが,第二次世界大戦後内戦によって完全に分裂した。

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世界大百科事典(旧版)内の国共合作の言及

【コミンテルン】より

…このような,国家としてのソ連の立場と各国共産党の利害の相克という状況は,1920年代後半の中国国民革命をめぐるコミンテルンの対応のなかにも再現された。1922年8月以降,国民党と共産党の間には提携関係が存在していたが(第1次国共合作),反帝反封建闘争の深化とともに,国民党右派と共産党の対立は不可避となっていく。このような事態に対するコミンテルンの対応は,ソ連指導部内の分派抗争とからみ,スターリンは保守的現状維持の立場から,トロツキーに反対して国共合作路線を最後の瞬間まで支持し,蔣介石による反共クーデタ(1927年4月)の成功をみすみす許した。…

【中華民国】より

…くわえて21年7月には,ロシア革命の道を歩もうとする中国共産党が誕生した。このときコミンテルンは東方に革命をもとめ,また孫文の方でも中国の革命に対する国際的援助をもとめていたので,双方の利害は一致し,ここに国共合作が日程にのぼることとなった。プロレタリアートの前衛党である共産党とブルジョア政党との合作協力は,半植民地・半封建社会における抑圧者=帝国主義と封建主義,とりわけそれらの政治的代理人である軍閥に対する統一戦線として可能となったものである。…

※「国共合作」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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