国分寺(寺)(読み)こくぶんじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「国分寺(寺)」の意味・わかりやすい解説

国分寺(寺)
こくぶんじ

聖武(しょうむ)天皇(在位724~749)と光明(こうみょう)皇后が発願(ほつがん)し、国ごとに建てさせ、鎮護(ちんご)国家を祈らせた寺。『続日本紀(しょくにほんぎ)』の741年(天平13)1月15日条に「国分寺」が初見し、ついで翌年11月17日「大養徳(大和)国城下郡司優婆塞貢進文(やまとのくにしきのしもぐんじうばそくこうしんもん)」(正倉院文書)にみえる。国分僧寺(金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)、金光明寺)と国分尼寺(にじ)(法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)、法華寺)とからなる。大和の東大寺は総国分寺に、法華寺は総国分尼寺に定められている。

[井上 薫]

鎮護国家を祈る地方寺院の源流

685年(天武天皇14)3月27日の詔(みことのり)により「諸国の家ごとに仏舎を作り、乃(すなわ)ち仏像及び経を置き、以(もっ)て礼拝供養せよ」と命じた(『日本書紀』)。この「諸国の家」の「仏舎」に関し、(1)国司が政務をとる国庁(こくちょう)の中に仏殿を建てる、(2)国庁の建物の一部に仏間(ぶつま)をつくる、(3)国庁の近くに寺をつくる、(4)天下の庶民の家に仏殿を建てる、(5)諸国の公卿(くぎょう)の家に仏殿をつくる、などの説が出された。671年(天智天皇10)近江(おうみ)大津宮の内裏(だいり)に仏殿があったことから推測し、天武(てんむ)14年詔にみえる「諸国の家」の仏舎に前記の(1)か(2)の説が適当であり、天武14年ころの仏教の普及度から考えると、(3)(4)(5)の説は当てはまらないと思う。

[井上 薫]

国分寺の創建

737年(天平9)3月3日に詔して、「国ごとに釈迦(しゃか)仏像一躯(く)・挟侍菩薩(きょうじぼさつ)二躯を造り、兼ねて大般若経(だいはんにゃきょう)一部を写さしめよ」と命じた(『続日本紀』)。これは国分僧寺の創建を命じたものと考えられる。詔に造寺の語がみえないが、仏像と経の造写はそれを安置する寺をつくることを意味したと解してよい。というのは、『続日本紀』の741年1月15日条に、藤原氏が返還した封戸(ふこ)5000のうち3000戸を諸国の「国分寺」の丈六仏像(じょうろくぶつぞう)をつくる費用にあてさせているところから、741年以前に国分寺の創建が命ぜられたことが知られ、737年3月3日の詔が創建を命じたと考えられるからである。735年以来の疱瘡(ほうそう)と飢饉(ききん)の災害で国内が荒廃したところへ、強盛な新羅(しらぎ)が来襲する危険が感じられ、さらに東北地方の蝦夷(えぞ)がうごめき、国家が内外両面から動揺したため、鎮護国家が願望され、737年3月に国分僧寺の創建の詔が出された。

[井上 薫]

藤原広嗣の乱により国分僧尼寺建立へ

740年(天平12)8月に大宰少弐(だざいのしょうに)の藤原広嗣(ひろつぐ)が政府の飢疫対策貧困を非難し、右大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)の顧問をしている吉備真備(きびのまきび)と僧玄昉(げんぼう)の罷免を要求して乱を起こし、聖武天皇は深刻に動揺し、恭仁(くに)(京都府)に遷都し、鎮護国家の願望はさらに高まり、741年2月14日の勅(『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』)で国分僧寺のほかに国分尼寺も建てさせ、護国経典の『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』(紫紙金泥(ししこんでい))を国分僧寺の塔に安置することにし、願文(がんもん)では「聖朝」の護持や「君臣の礼」の維持を祈り、広嗣のような「邪臣」の絶滅を念じている。

[井上 薫]

国分二寺の組織

鎮護国家や天子の福寿(ふくじゅ)を祈る寺を国ごとに建てる方式は隋(ずい)・唐に先例があり、(1)隋の文帝(ぶんてい)の州県各立二寺と舎利塔(しゃりとう)建置、(2)唐の高宗(こうそう)の州寺観設置、(3)則天武后(そくてんぶこう)の大雲寺(だいうんじ)設置、(4)中宗(ちゅうそう)の竜興寺(りゅうこうじ)設置、(5)玄宗(げんそう)の開元寺(かいげんじ)設置がそれで、日本の国分寺制に大きな影響を与えたのは(3)であり、次は(4)(1)(2)である。隋唐制を移植した国分寺建立建策者として僧道慈(どうじ)と玄昉(げんぼう)が注目される。国分寺の国は、(イ)日本、(ロ)大和・筑前(ちくぜん)などの国をさす。国ごとに建てる寺であるから(ロ)の国にあたるが、鎮護国家を祈る寺であるので(イ)の日本国とも関係がある。分は何々に所属するとか、何々のためのものという意味である(仏教語の仏分、塔分、聖僧分などの例)。国分僧寺は僧の定員が20人で、封戸50と水田10町が施入され、国分尼寺は定員10人、水田10町であり、僧尼は毎月8日に『最勝王経』を転読し、この経には、仏教を広める支配者の国に四天王が赴いて守護すると説かれている。

[井上 薫]

国分寺の造営

第1期(737~748、橘諸兄政権期)には、寺地、墾田、封戸、正税(しょうぜい)を寄進し、国司と国師を奨励し、催検使(さいけんし)を遣わした。国司は農民雑徭(ぞうよう)で徴集し造営にあたらせ、郡司に協力させた。平城京の写経所で金字(こんじ)『最勝王経』を書写し、諸国の国分寺に送った。山背(山城)(やましろ)国では恭仁宮の大極殿(だいごくでん)を国分寺に寄進し金堂とした。第2期(749~763、藤原仲麻呂(なかまろ)政権期)には、郡司が財物を国分寺に寄進した。756年(天平勝宝8歳)聖武太上(だいじょう)天皇が崩じ、その周忌までに国分寺を完成せよと命じ、越後(えちご)・丹波(たんば)・丹後(たんご)・但馬(たじま)・因幡(いなば)・伯耆(ほうき)・出雲(いずも)・石見(いわみ)・美作(みまさか)・備前(びぜん)・備中(びっちゅう)・備後(びんご)・安芸(あき)・周防(すおう)・長門(ながと)・紀伊(きい)・阿波(あわ)・讃岐(さぬき)・伊予(いよ)・土佐(とさ)・筑後(ちくご)・肥前(ひぜん)・肥後(ひご)・豊前(ぶぜん)・豊後(ぶんご)・日向(ひゅうが)の26国に灌頂幡(かんじょうのばん)などを授け、周忌に用いさせており、これらの国の国分寺は法要を営むくらいに調っていたらしい。武蔵(むさし)国分寺は758年(天平宝字2)ころまでにできあがった(出土瓦(がわら)の郡名から推定)。第3期(764~784、道鏡(どうきょう)政権期と奈良朝末期)には、造営中の佐渡・出雲、造営遅延の丹後、罹災(りさい)の伊勢(いせ)・尾張(おわり)・美濃(みの)の国分寺が史料にみえ、ほかの国についても「造り畢(おわ)る」「朽損(きゅうそん)」などと記される。道鏡は、国分寺造営・維持の指導権を国司から国師や国分寺に回収した。

[井上 薫]

国分寺の変遷

国分寺の成立期や規模は、国の財力、国・郡司の関心度、政府・豪族からの寄進と技術者や産物の有無などによって相違した。寺域の規模は、国分僧寺の場合、武蔵の方3.5町が最大で、山背(山城)の方3町、河内の東西2町、南北2.5町などがそれに次ぎ、大小の地方差がある。最小は甲斐(かい)の東西53間、南北1町11間である。出雲(方1町23間)では築地(ついじ)に囲まれた境内に南門、金堂、講堂、七重塔、鐘楼(しょうろう)、経楼、僧房などが配置されていた。国分尼寺の規模は僧寺のそれよりも小さく、阿波の方1.5町が筆頭で、以下大小の差があり、出雲、隠岐、備中の方1町が最小である。塔は僧寺だけにみられ、備中国分尼寺の塔跡かといわれる土壇は塔ではありえない(『最勝王経』は、僧寺の塔に安置されるもので、尼寺と関係はない)。律令(りつりょう)国家の衰えとともに国分寺も衰微し、現在に寺として残っているものと、廃寺となり遺跡をとどめるものなど種々の例がみられる。

[井上 薫]

『角田文衛編『国分寺の研究』上下(1938・考古学研究会)』『井上薫著『奈良朝仏教史の研究』(1966・吉川弘文館)』


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