国技館(読み)こくぎかん

精選版 日本国語大辞典 「国技館」の意味・読み・例文・類語

こくぎ‐かん ‥クヮン【国技館】

東京都墨田区横網にある相撲興行場。明治四二年(一九〇九)東京本所両国回向院境内設立。昭和二九年(一九五四)台東区蔵前に移り、同六〇年現在地に新国技館を建設。

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デジタル大辞泉 「国技館」の意味・読み・例文・類語

こくぎ‐かん〔‐クワン〕【国技館】

東京都墨田区横網よこあみにある日本相撲協会常設館。明治42年(1909)両国に設立され、昭和29年(1954)蔵前に移転。昭和60年(1985)現在地に新設。大相撲本場所(1月・5月・9月)が行われるほか、格闘技の興行や各種催し物にも利用される。両国国技館

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「国技館」の意味・わかりやすい解説

国技館
こくぎかん

1909年(明治42)6月、東京・本所両国の回向院(えこういん)境内に完成した相撲(すもう)常設館に命名された名称。開館当日の式辞文士江見水蔭(えみすいいん)が執筆したが、文中に「相撲は日本の国技」の表現があり、協会役員の尾車(おぐるま)親方(元大関大戸平)がこの辞句を推薦したため、翌年1月には国技館と改称した。当時としては珍しい大鉄傘円形の大建築は東京新名所として評判をよび、年2場所の本場所のほか夏の納涼大会、秋の菊人形展などが催された。その後、浅草、大阪、京都、富山など各地にも国技館が建てられた。両国国技館は1917年(大正6)、関東大震災(1923)、第二次世界大戦による戦災などで再三焼け、修復されたが、戦後占領軍に接収され、メモリアルホールと改称し、接収解除後の1958年(昭和33)日本大学講堂となり、1983年に取り壊された。その間本拠地を失った相撲協会は、興行場所を求めて、明治神宮境内や浜町公園などを転々とし、1950年から蔵前仮設国技館に移った。その後1954年秋、蔵前に体育館様式建築で国技館が完成し、以降東京場所年3回(1月、5月、9月)の定場所となった。

 しかし、旧海軍格納庫の古材使用のため、老朽化が著しく、新しく両国駅北側操車場跡地(墨田(すみだ)区横網1-20)に新国技館を建設することになり、1983年4月に新築工事を始め、1985年1月完成した新国技館で、土俵開きが行われた。敷地面積1万8280平方メートル、建築面積1万3000平方メートル、地上2階は正方形の和風隅切型大屋根の外観で、1階枡席(ますせき)と土俵は収納装置をもち、平土間にすることができ、ボクシング、柔道、プロレスなど多目的ホールとして利用される。なお2階前面にも枡席、貴賓席、1・2階に身障者席などが設置されている。収容人員約1万1500。館内の地上1階には相撲案内所(旧称相撲茶屋)、相撲博物館、2階に相撲教習所がある。地下1階に相撲診療所、地下2階に95台収納の駐車場がある。

[池田雅雄]


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改訂新版 世界大百科事典 「国技館」の意味・わかりやすい解説

国技館 (こくぎかん)

財団法人日本相撲協会が設立,経営する屋内催物施設。明治末期,常陸山梅ヶ谷(2代)の両横綱が相対する大相撲の黄金時代を迎え,江戸時代天保年間から定場所になっていた回向院境内に,1909年6月相撲常設館が完成,江見水蔭が起草した開館当日の祝辞文の字句〈相撲は日本の国技なり〉の文字をとって,相撲協会の年寄尾車の提案により〈国技館〉と命名された。江戸時代から野天小屋掛けの晴天興行であったのが,晴雨にかかわらず興行できるようになり,約2000人前後の収容人員が一躍1万3000人になって,相撲見物は大衆化した。大鉄傘型ドームの新建築物は東京新名所として大評判を呼び,その後,大阪,京都,富山など各地に国技館が建てられた。両国国技館は関東大震災(1923),第2次世界大戦により被災,戦後,進駐軍に接収された。54年秋,浅草蔵前に,収容人員約1万1000人,体育館様式建築の国技館が完成した。この蔵前国技館は84年まで使用されたが,85年1月,両国駅に隣接した旧国鉄用地に新国技館が開館。地上2階,地下1階,外観は正方形の屋根が建物を包み込んだ和風造りで,収容人員は約1万1500人。土俵が可動式で地下にしまい込めるようになっていて,多目的に利用できる。
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百科事典マイペディア 「国技館」の意味・わかりやすい解説

国技館【こくぎかん】

財団法人日本相撲協会が経営する相撲興行場兼屋内催物施設。1909年東京両国の回向(えこう)院隣接地に建設された旧国技館は辰野金吾の設計による高さ41m,直径121mのドーム式の建物で定員は1万3000人,相撲見物が大衆化する契機となった。その後大阪や京都にも国技館が建てられた。両国国技館は関東大震災(1923年),第2次世界大戦で被災,戦後は占領軍が接収,メモリアル・ホールと名付け,遊技場として利用した。1954年東京都台東区蔵前に国技館を建設。定員1万1000人。その後さらに1985年両国駅北に新国技館が完成した。定員1万1500人。相撲博物館,相撲教習所,相撲茶屋などを併設する。
→関連項目墨田[区]栃錦清隆

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「国技館」の意味・わかりやすい解説

国技館
こくぎかん

財団法人日本相撲協会が経営する屋内競技施設。東京都墨田区横網 (両国) にあり,相撲興行に加え,プロレスリング,ボクシング,音楽会など多目的ホールとして利用されている。 1985年1月完成。地上3階,地下2階で延べ3万 5000m2余。収容人員約1万 1100人で,相撲博物館,相撲教習所や国技館サービス会社 (通称相撲茶屋) のほかに,コンサート用の音響設備がある。雨水をためて,それをトイレ用に使うなど省エネにも気を配っている。最初は墨田区両国にあったが,第2次世界大戦後進駐軍に接収され (1952年に返還) ,1950年より蔵前に移り,1954年蔵前国技館が完成。新国技館は 1983年より両国駅操車場跡に建設され両国に戻った。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「国技館」の解説

国技館
こくぎかん

日本相撲協会が維持・管理する常設相撲場。日露戦争後,梅ケ谷・常陸山両横綱の対戦が人気をよび,ナショナリズム高揚の気運にものって相撲興行は好況を呈した。その機にあわせ大日本相撲協会は,天候に左右されていた興行を安定させるため,東京両国の回向院(えこういん)境内に常設館を建設。1909年(明治42)6月に開館し,国技館と命名した。以後,相撲はひろく国技と称されるようになった。失火や関東大震災による焼失・再建をへて,第2次大戦後占領軍に接収された。1950~84年(昭和25~59)には浅草の蔵前国技館が使用され,85年1月,新たに両国国技館が開館した。

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世界大百科事典(旧版)内の国技館の言及

【回向院】より

…また江戸時代には諸国の霊仏・霊宝を迎えて行う出開帳の開催場所として知られ,見世物の興行もあずかり多数の参詣人で賑わった。天明期からは毎年境内で勧進相撲が行われ,明治から昭和にかけての両国の国技館は当寺の境内にあった。【長谷川 匡俊】。…

※「国技館」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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