土佐街道(読み)とさかいどう

日本歴史地名大系 「土佐街道」の解説

土佐街道
とさかいどう

近世徳島藩の官道であった阿波五街道の一つ。徳島城鷲の門わしのもんを起点として南進し、土佐国境に至る。土佐本道・土佐往還ともよばれた(阿波国交通史)。険しい山が多く阿波五街道のなかでも最も難所といわれた。

慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図にはすでに当街道の道筋が描かれており、天正一三年(一五八五)の蜂須賀家政入国直後から整備されたことがうかがえる。里程は、正保四年(一六四七)の海陸道度帳によれば本道二三里であった。経路は、徳島城鷲の門からとおり町を西へ向かい、新町しんまち橋を渡って南へ折れ大工だいく町からおお道を通り二軒屋にけんや町に至る。同町で徳島城下を出て下八万しもはちまん大谷おおたに方上かたかみ西須賀にしずか(現徳島市)前原まえばら日開野ひがいの芝生しぼう田野たの立江たつえ(現小松島市)宮倉みやぐらうら古庄ふるしよう(現羽ノ浦町)おか南島みなみしま西方にしがた本庄ほんじよう桑野くわの南荒田野みなみあらたの下福井しもふくい(現阿南市)赤松あかまつ田井たい木岐きき(現由岐町)日和佐ひわさ(現日和佐町)牟岐むぎ(現牟岐町)浅川あさかわ(現海南町)高園たかその(現海部町)宍喰ししくい(現宍喰町)の各村浦を経て土佐国境に至る。

土佐街道
とさかいどう

土佐の幹線道路は歴史的にみて古代から現在までおおよその道筋に変化はないといえる。長宗我部元親百箇条には「本道六尺五寸間可二間、同道事、在々山里浦々共、庄屋堅可申付、若道悪時者、其地頭百姓より、過銀壱貫文、為庄屋取集、奉行中相渡事」と定め、山内氏も元禄大定目で「大道幅三間、脇道幅二間、枝道幅一間、大抵相定之、険難之所は地形に応し、往還無障様に、道・橋常々可入念事」と規定している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「土佐街道」の意味・わかりやすい解説

土佐街道
とさかいどう

土佐国 (高知県) と現在の徳島市四国中央市川之江松山市とをそれぞれ結ぶ主要街道の総称。 (1) 徳島から土佐にいたる別称土佐浜街道は,徳島から室戸岬を回り高知にいたる。現在の国道 55号線に相当。 (2) 徳島から土佐にいたる別称土佐中街道は,徳島から阿南市富岡までは土佐浜街道と同様だが,富岡で道筋を変え,上那賀 (那賀町 ) ,四ツ足峠を越えて土佐山田 (香美市 ) にいたる。現在の国道 195号線に相当。 (3) 川之江 (愛媛県) と高知城下を結ぶ別称土佐北街道は,高知城下から大豊町を通り笹ヶ峰を越え伊予 (愛媛県) にいたる。古代の官道として開かれ,江戸時代に入って参勤交代の道となってから,城下と上方や江戸を結ぶ幹線道となり,街道の途中に立川番所書院 (国指定重要文化財) が設けられた。大豊までは現在の国道 32号線,それ以降は県道5号線に相当。 (4) 松山城下から久万高原三坂峠を越え土佐の土居 (仁淀川町 ) にいたる別称松山街道は現在の国道 33号線に相当。 (5) 土佐の窪川 (四万十町 ) から宇和島市にいたる別称,宇和島街道は現在の国道 381号線に相当。

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