土岐氏の乱(読み)ときしのらん

改訂新版 世界大百科事典 「土岐氏の乱」の意味・わかりやすい解説

土岐氏の乱 (ときしのらん)

1389-90年(元中6・康応1-元中7・明徳1)将軍足利義満が土岐氏の内紛に介入して土岐氏の勢力を削減させた乱。美濃の乱ともいう。明徳の乱(1391),応永の乱(1399)などと同じく,将軍専制権力の確立を目ざした足利氏による大守護抑圧策の一つである。土岐氏は美濃国土岐郡土岐郷を本貫とする清和源氏の一流。頼貞が足利尊氏に従って以来,足利方として南北朝内乱に戦功があり,孫頼康は美濃のほか尾張・伊勢の守護職も兼ねた。東海有力守護の強大化を阻止しようとした義満は,頼康の没後,3ヵ国守護職のうち美濃・伊勢の守護職を康行に,尾張を満貞に与え,勢力の分裂を図った。これが因となった土岐氏の内紛に介入し,康行討伐軍を派遣して1390年3月これを没落させた。この結果康行の2ヵ国守護職の内,美濃は頼世(頼康の弟)に,伊勢は仁木義長へと分割された。尾張守護職は満貞が保持したが,土岐氏の勢力は弱体化した。以後土岐氏が一貫して保持した守護職は,美濃一国のみであった。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「土岐氏の乱」の意味・わかりやすい解説

土岐氏の乱
ときうじのらん

元中7=明徳1 (1390) 年,将軍足利義満によって土岐康行が滅ぼされた事件。室町幕府創業の元老として勢力のあった土岐頼康が,元中4=嘉慶1 (87) 年 70歳で死んだ。この機を利用して土岐氏打倒を企てた義満は,頼康所帯の守護職3ヵ国のうち,惣領を継いだ頼康養子康行には美濃,伊勢の継承を許し,尾張を康行の弟満貞に与え,康行を挑発した。康行の代官として京都にいた満貞が,翌年尾張に下ると,康行の従弟娘婿の詮直が満貞を迎え討ち,詮直を康行が助けたため,これより美濃,尾張で内乱が続いた。元中6=康応1 (89) 年4月義満は康行討伐の兵を送り,翌年康行を破り没落させた。『明徳記』によると,満貞は兄に代って土岐氏の惣領になろうとの野心をもっていたという。これを義満が巧みに利用した事件といえよう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「土岐氏の乱」の解説

土岐氏の乱
ときしのらん

1388~90年(嘉慶2・元中5~明徳元・元中7)に行われた土岐氏の内紛,および室町幕府による土岐康行の追討。87年康行は叔父頼康から美濃・尾張・伊勢3カ国の守護職を継承したが,尾張についてはまもなく弟満貞にかえられた。尾張国守護代土岐詮直(あきなお)は満貞の入国に抵抗し,88年5月,尾張国黒田(現,愛知県一宮市)で交戦,康行も詮直を援助した。これが幕府への反抗とみなされ,将軍足利義満は康行追討の兵を発した。康行は抵抗したが,90年閏3月,美濃国小島城(現,岐阜県揖斐川町)の陥落により没落。当時土岐氏は有力大名で,義満は守護をかえることで同氏を挑発し,一撃を加えることで将軍権力の優越を確保しようとしたものとみられる。

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