地芝居(読み)じしばい

精選版 日本国語大辞典 「地芝居」の意味・読み・例文・類語

じ‐しばい ヂしばゐ【地芝居】

〘名〙 その土地の者によって演じられる芝居。農村などで、秋のとりいれが終わったころ、収穫を祝って、村人たちが行なう芝居。村芝居。《季・秋》
※滑稽本・狂言田舎操(1811)上「わしが去所の地芝居(ヂシバヰ)へ往たことあったがナ」

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デジタル大辞泉 「地芝居」の意味・読み・例文・類語

じ‐しばい〔ヂしばゐ〕【地芝居】

地狂言3」に同じ。 秋》

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「地芝居」の意味・わかりやすい解説

地芝居
じしばい

地狂言あるいは草芝居、田舎(いなか)芝居ともいう。広義には村落における歌舞伎(かぶき)上演(村芝居)一般をさすが、狭義には、村芝居のなかでも専門の役者の来演を求めるのを買芝居もしくは請(うけ)芝居というのに対して、とくに素人(しろうと)の地元農民が演じる歌舞伎をいう場合が多い。江戸中期より明治中期にかけての長きにわたって村落芸能の中心を占め、先行の神楽(かぐら)や獅子舞(ししまい)などの芸態にも影響を与えたが、今日では黒森(山形県)、檜枝岐(ひのえまた)(福島県)、小豆(しょうど)島(香川県)などにわずかに郷土芸能として残存するにすぎない。

 中央の大都市で育成された歌舞伎は、ほぼ元禄(げんろく)期(1688~1704)を画期として、そのころ地方都市に生まれた歌舞伎芸団や、役者村とよばれた村々を拠点とする芸能者集団の巡業活動を通じて、地方農村に浸透した。当初これを受け止めたのは、城下町在郷町の町人であり、その祭礼などに素人芝居として歌舞伎を上演する風を生じた。元禄期に始まる那須烏山(なすからすやま)市(栃木県)の「山揚げ」や、宝暦(ほうれき)期(1751~64)にさかのぼる長浜市(滋賀県)の「曳山(ひきやま)狂言」などが現存する例である。ほぼ同時期に一部の農村でその祭礼に農民による歌舞伎の上演がみられ、18世紀中期以降急速に全国に波及した。ことに盛んであった地域は北関東から中部地方、中国地方にかけての山間部であり、それらは養蚕製糸業に代表される農村産業が隆盛をみた地帯と重なり合っており、地芝居の流行がそうした経済的発展に支えられた現象であったことを示唆している。農村で演じられる歌舞伎は、村の氏神の祭礼に村落共同体の行事として開催され、雨乞(あまご)いや立願をはじめ伝統的な祭式習俗とも結合し、都市商業劇場とは違った地芝居独特の世界を形づくった。地芝居の成立が、当時農村で高まりつつあった都市的な娯楽への志向を基盤にしていたことは、その演目が都市の歌舞伎そのままであったこと、さらに衣装や大道具のはでな丸本狂言の時代物に人気が集中したことなどから推して疑うべくもないが、にもかかわらず形態のうえで著しく農村的、民俗的な色彩を帯びた表現をとったところに歴史的な性格が認められる。

 地芝居の盛行はやがて、そのための舞台(今日、農村歌舞伎舞台とよばれる)を生み出すことになったが、それも村の施設として祭礼の場である従来の神社建築(まれに寺院建築)の一部を改変することにより、しだいに歌舞伎の上演にふさわしい形式を整えたものであった。なお現在、農村歌舞伎舞台は東北地方から九州地方に及ぶ広い範囲に、現存・廃絶を含めて2000以上の所在地が確認されており、地芝居の盛行が全国的なものであったことをうかがわせるとともに、その大半の建築年代が化政(かせい)期(1804~30)から明治中期であること、かつ分布の濃厚な地域が関東・中部地方であることなど、いずれも地芝居の歴史的動向を忠実に反映している。

 こうした地芝居の流行は農村に奢侈(しゃし)的な風潮をもたらす結果となり、事実、多大な出費に耐えかねて夜逃げ同然に村を去った者もいた。したがって幕府・諸藩(のちには明治政府も)は勧農政策の一環としてしばしば地芝居を禁制の対象とし、おびただしい禁令が出された。多くは名目的なものであったが、幕政改革の際などには厳格に実施され、実際に処罰を受けた事例もあって、そのため「かくれ芝居」といった非合法の上演も少なくなかった。地芝居の盛行は明治に入ってもなお持続したが、もともと娯楽性の強い芸能であっただけに、活動写真(映画)など新しい娯楽の出現とともに使命を終えて衰退した。農村娯楽の不足した第二次世界大戦後一時的に復活した所もあったが、その後の急激な都市化と娯楽の多様化の進行で、現在ではほぼ消滅したものとみてよい。

[守屋 毅]


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改訂新版 世界大百科事典 「地芝居」の意味・わかりやすい解説

地芝居 (じしばい)

農村を中心に,その土地の人々の演ずる芝居(歌舞伎)。地狂言,村芝居ともいう。ただし,〈地狂言〉は歌舞伎の所作事(舞踊)に対する地芸(せりふによる演技),または素人の演ずる狂言を意味する場合と区別されねばならず,〈村芝居〉は職業的な旅回りの一座による芝居を指すこともある。こうした村芝居の興行を,地芝居に対して買芝居という。

 地芝居の発祥はかなり古い。最も古い地芝居の記録で伝存するのは,岐阜県下呂市の旧萩原町上呂の久津八幡宮に蔵される,1706年(宝永3)から1715年(正徳5)にいたる10年間の祭礼日記である。歌舞伎は,近世の初めに三都を中心に成立し発展したが,当初の女歌舞伎のころから,地方を巡演する芸団により地方でも興行され,土着の芸団も生まれて,全国津々浦々にいきわたった。地芝居は,地方の農民が旅役者の模倣をしたり,玄人の指導を受けて演ずることから始まったと考えられるが,これも歌舞伎の享受の仕方の一つであった。地芝居は単なる娯楽としてではなく,村の生活と密着した民俗の中に取り込まれ,虫送り,雨乞い,疫病除け,祖先の供養など,祭礼その他の信仰行事に結びつけて,祈願,奉納の名目で行われることが多かった。これは,幕府の農民支配が厳しく,原則的には地芝居が禁じられていたからである。にもかかわらず,地芝居は禁圧にも屈せずに,全国各地に浸透して盛行した。地方差はあるが,表向き〈芝居〉とはいわず,〈祭礼狂言〉〈盆俄(ぼんにわか)〉〈手踊り〉などと呼ばれることが多く,とくに弾圧の激しかった上州(群馬県)のように,〈隠れ芝居〉と称した例もある。また各地で,芝居を演ずることを〈おどる〉ともいった。

 三都の歌舞伎を底辺から支える力となったともいえる地芝居の盛行は,文化・文政期(1804-30)から明治にかけての約1世紀の間が最も顕著で,その演目は,ほとんどが《絵本太功記》《寺子屋》《仮名手本忠臣蔵》《先代萩》のような義太夫狂言であった。大正になると官憲の取締りが厳しくなって沈滞し,昭和の初めに復興の気運がみえたが,やがて戦争のためにほとんど中断され,戦後の復活はつかのまで,社会の変化,娯楽の多様化に伴い急速に衰退した。しかし,全国の各地には,今もなお保存会を結成するなどして根強く伝承しているところもある。

 地芝居は,拝殿,長床,舞殿,神楽殿,籠り所などの名目で,神社の境内に建てられた回り舞台などの舞台機構も備えた常設の舞台(農村舞台)で演ぜられたところが多いが,組立式の仮設舞台のところもかなりあり,一部には山車屋台や船屋台で演ぜられたところもある。地芝居のほとんどは絶えても,常設の農村舞台の遺構は今も優に数百棟を超え,なかには文化財として国や県の指定を受けたものもあり,貴重な民俗資料となっている。

 現在も地芝居の上演が見られる代表例を若干挙げると,次のとおりである。山形県酒田市黒森(黒森歌舞伎),同県鶴岡市の旧温海町山五十川(やまいらがわ),福島県檜枝岐(ひのえまた)村(檜枝岐歌舞伎),栃木県佐野市の旧葛生(くずう)町(牧歌舞伎),埼玉県小鹿野町,静岡県浜松市の旧引佐(いなさ)町(横尾歌舞伎),長野県大鹿村,愛知県豊田市の旧小原村,岐阜県下呂市の旧下呂町(鳳凰座村芝居),同県中津川市の旧加子母(かしも)村,滋賀県長浜市(曳山祭),香川県小豆島(肥土山,中山),岡山県奈義町(横仙歌舞伎)。
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とっさの日本語便利帳 「地芝居」の解説

地芝居

農村歌舞伎、村芝居、地狂言などともいわれ、地方の人間が演じる芝居。山形の黒森歌舞伎、福島の檜枝岐歌舞伎など。金毘羅歌舞伎(香川)は日本最古の芝居小屋で、中央の役者が演じる。

出典 (株)朝日新聞出版発行「とっさの日本語便利帳」とっさの日本語便利帳について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「地芝居」の意味・わかりやすい解説

地芝居
じしばい

地狂言」のページをご覧ください。

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