堀尾吉晴(読み)ホリオヨシハル

デジタル大辞泉 「堀尾吉晴」の意味・読み・例文・類語

ほりお‐よしはる〔ほりを‐〕【堀尾吉晴】

[1543~1611]安土桃山時代武将尾張の人。名は可晴とも書く。豊臣秀吉に仕えて、慶長3年(1598)三中老一人となった。関ヶ原の戦いでは徳川方。松江城築城

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精選版 日本国語大辞典 「堀尾吉晴」の意味・読み・例文・類語

ほりお‐よしはる【堀尾吉晴】

安土桃山時代の武将。堀尾泰晴の子。信長秀吉に仕え、小田原征伐などで功をあげ、浜松に封ぜられた。関ケ原の戦では徳川家康につき、出雲を与えられ松江城を築いた。天文一二~慶長一六年(一五四三‐一六一一

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朝日日本歴史人物事典 「堀尾吉晴」の解説

堀尾吉晴

没年:慶長16.6.17(1611.7.26)
生年:天文12(1543)
安土桃山・江戸前期の武将。尾張丹羽郡の土豪堀尾泰晴(吉久)の長男。幼名仁王丸,通称小太郎,茂助といった。名は吉定,吉直といったときもあり,可晴とも書いた。はじめ織田信長に仕えたが,早くに豊臣秀吉に仕え,天正1(1573)年,近江長浜のうちで100万石を与えられ,同13年には近江佐和山城主4万石となった。同15年の九州攻めののち,従五位下・帯刀先生に任じられ,同18年の小田原攻め後,遠江浜松城(12万石)に移った。秀吉の信任厚く,いわゆる三中老のひとりに任じられたが,秀吉死後の慶長4(1599)年,越前府中で5万石を与えられたとき家督を子忠氏に譲り,越前府中に隠居することになった。翌5年7月に新領地へ赴く途中,三河の池鯉鮒(知立市)で加賀井重望(秀望とも)に切られ傷つき,9月の関ケ原の戦には参戦できなかった。戦後,子忠氏が出雲に転封されたのに従い,忠氏早世後は孫忠晴を補佐し,松江城を築いている。

(小和田哲男)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「堀尾吉晴」の意味・わかりやすい解説

堀尾吉晴
ほりおよしはる
(1543―1611)

豊臣(とよとみ)政権下の大名。可晴とも書き、吉定、吉直ともいう。尾張(おわり)(愛知県)出身。藤吉郎(とうきちろう)時代以来の豊臣秀吉家人として功あり、1573年(天正1)近江(おうみ)長浜(ながはま)に110石を与えられて以降、逐次加増。若狭(わかさ)高浜1万7000石、若狭坂木2万石、近江佐和山4万石の城主を歴任。90年の小田原征伐には山中攻城戦に参加、平定後、遠江(とおとうみ)浜松12万石に加増移封され、98年(慶長3)三中老(ちゅうろう)の一人となる。99年越前(えちぜん)府中城5万石を隠居料として与えられ、嗣子(しし)忠氏(ただうじ)に家督を譲渡。1600年(慶長5)忠氏は出雲(いずも)富田に転封されてまもなく死去し、孫の忠晴(ただはる)が若年のため国政を後見。11年には松江城を築城した。慶長(けいちょう)16年6月17日没。

[谷口研語]

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改訂新版 世界大百科事典 「堀尾吉晴」の意味・わかりやすい解説

堀尾吉晴 (ほりおよしはる)
生没年:1543-1611(天文12-慶長16)

戦国末~江戸初期の武将。尾張御供所に生まれる。茂助と称し,可晴とも書く。豊臣秀吉に仕え,1590年(天正18)遠江浜松の城主となった。のち徳川家康に通じ,別に越前府中を与えられた。1600年(慶長5)会津出兵に子忠氏を従わせ,自身は命により上方,北国の動静を探るため浜松より越前に向かった。途中水野忠重の謀殺に遭遇し,刺客を討った。同年出雲松江24万石に移った。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「堀尾吉晴」の意味・わかりやすい解説

堀尾吉晴
ほりおよしはる

[生]天文12(1543).尾張
[没]慶長16(1611).6.17. 出雲
安土桃山時代の武将。通称,茂助。吉定,吉直,可晴ともいった。泰晴の子。織田信長,豊臣秀吉に仕え,斎藤氏征討,近江攻めなどに功があり,若狭高浜,近江佐和山を領し,天正 18 (1590) 年遠江浜松 12万石を与えられ,慶長3 (98) 年中老,のち越前府中5万石を加封された。関ヶ原の戦いののち,家督を子忠氏に譲ったが,同5年出雲松江 24万石を受けた忠氏が同9年死去したので,孫忠晴を後見して,松江城築城などその治政にあずかった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「堀尾吉晴」の解説

堀尾吉晴 ほりお-よしはる

1543-1611 戦国-江戸時代前期の武将。
天文(てんぶん)12年生まれ。豊臣秀吉の家臣。小田原攻めに功をたて,遠江(とおとうみ)(静岡県)浜松城12万石の城主となる。慶長4年隠居。9年出雲(いずも)松江藩主堀尾家初代である子の忠氏が死去したため,2代をついだ6歳の孫忠晴を補佐し,松江城を築城した。慶長16年6月17日死去。69歳。幼名は仁王丸。通称は小太郎,茂助。名は可晴ともかく。

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世界大百科事典(旧版)内の堀尾吉晴の言及

【出雲国】より

…この後山中幸盛等による尼子再興の試みが続けられたというものの,それも失敗に帰し,89年(天正17)には毛利氏による太閤検地が実施されて中世社会は終りを告げることになった。【井上 寛司】
【近世】
 1600年(慶長5)11月,関ヶ原の敗戦で長門国に退いた毛利氏に代わって,出雲・隠岐両国24万石の大守として,遠江国浜松から堀尾吉晴が入部した。御帳前18万6000石,内検27万8500石が出雲国の石高であった。…

【松江[市]】より

…市街地は島根半島の南側,宍道(しんじ)湖中海にはさまれた松江平野に位置し,東流する大橋川によって北の末次(橋北)と南の白潟(しらかた)(橋南)に二分されている。江戸時代初期に堀尾吉晴が北部の亀田山に築城し,京極氏を経て松平氏の城下町として繁栄した。明治維新後,松江に県庁が置かれて県の政治・経済・文化の中心となり,1908年宍道湖の南岸に山陰本線,28年北岸に一畑(いちばた)電鉄が開通して市街地が拡大した。…

【松江藩】より

…初期は外様,中期以降は親藩。1600年(慶長5)堀尾吉晴が出雲・隠岐両国24万石に封ぜられ,能義郡富田城に入る。07年島根郡末次の亀田山に移城を決定,11年に完成移転,以後歴代藩主の居城となった。…

※「堀尾吉晴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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