夕雲開(読み)せきうんびらき

改訂新版 世界大百科事典 「夕雲開」の意味・わかりやすい解説

夕雲開 (せきうんびらき)

大坂の陣後,摂河泉(摂津河内和泉)の幕府代官は,元和・寛永(1615-44)のころ各地で川口干潟,川面荒芝地,開残荒地などの開発を積極的に推進した。その代表的な一例が夕雲開(現,大阪府堺市北区)である。寛永年間(1624-44),幕府代官高西(こうざい)夕雲が堺の商人木地屋庄右衛門の協力を得て,和泉国大鳥郡の仁徳陵周辺から東にひろがる原野新田を開発,当初は万代新田(もずしんでん)と名づけたが,開発者の名にちなんで夕雲開と呼ばれるようになった。この地域の開発は古く,洪積層の段丘上に旧来の村々が存在し,その間隙に放置されていた開残荒地が開かれて新田の創設をみた。そのため,万代新田は地域的なまとまりをもたず,村内居住者も僅少であった。したがって〈畑地所々方々江飛地ニ相成,……村方ニ百姓無御座〉という景観を呈していた。1629年〈泉州万代新田検地帳〉では,名請人3名,村高201石3斗6升,畑27町1畝18歩とされ,その87%(高175石余,面積23町1反1畝余)を木地屋庄右衛門が独占的に名請けしていた。この木地屋の独占的地位は,開発過程への積極的関与にもとづくものであろう。79年(延宝7)の再検地では,名請人2名,村高289石9斗7合,畑30町9反5畝11歩,屋敷1反歩となり,その83%(高239石余,面積25町8反4畝余)が木地屋の保有地になっている。堺市中に在住した木地屋は,保有地の耕作を入作による下作に依存していた。97年(元禄10)〈夕雲開下作人名寄帳〉によると,夕雲開全体の下作人223人中,177人(79%)が堺市中に在住する細民,44人(20%)が周辺農村からの入作者,2人が村内居住者で,1人平均下作面積は1反3畝余の零細下作であった。周辺村落の既存の用水施設の水利権から排除されて,皆畑新田という姿をとっていたので,水稲作を行うことができず,畑作だけに依存していた。99年〈小検見請指出目録〉では,綿23町6畝余(74.5%),大豆1町9反5畝余(6.3%),雑子(雑穀)5町9反3畝余(19.2%)の作付けをみる。冬作は麦作にあてられていたであろう。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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