外村(読み)トノムラ

デジタル大辞泉 「外村」の意味・読み・例文・類語

とのむら【外村】

姓氏の一。
[補説]「外村」姓の人物
外村彰とのむらあきら
外村繁とのむらしげる

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「外村」の解説

外村
とのむら

[現在地名]八日市市外町・幸町さいわいちよう春日町かすがちよう緑町みどりちよう東本町ひがしほんまち沖野おきの一―二丁目・東沖野ひがしおきの一―二丁目・ふだつじ一丁目

河合寺かわいでら村の東にあり、北は愛知えち川東岸の向川原むこうかわらから、南は八風はつぷう街道を越えて蒲生がもう芝原しばはら村境の枝郷若松わかまつまで南北に細長い村域をもつ。永正元年(一五〇四)の小幡商人と保内商人の塩売買をめぐる争いの際、小幡商人の足子として報告された者のなかに「殿村兵衛三郎」の名がみえる(一二月一七日「建部胤泰書状」今堀日吉神社文書)

外村
とのむら

[現在地名]岩美町外邑とのむら

延興寺えんごうじ村の南に位置する。小田おだ川西岸に集落があり、対岸うばヶ山(三一三メートル)がある。外ノ江村とも称し、支村香谷こうだにがあった(因幡志)。もとは小田大谷おだおおたに村に含まれていたが、元禄郷帳作成時に同村の枝郷として分村した(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。元禄郷帳によれば高二七一石余。享保元年(一七一六)郷村高辻帳に掲載されている高一八九石余は拝領高相当分と考えられる。

外村
そでむら

[現在地名]中島町外

小牧おまき村の北、七尾湾西海岸に位置し、東は海を隔てて能登島(現能登島町)。内浦街道沿いの海辺の村。戦国後期頃の能登内浦村々給人注文写(諸橋文書)に「そて」とみえ、小牧とともに能登畠山一族の二本松氏の知行分であった。

初め加賀藩領。土方雄久知行目録に村名がみえ、慶長一一年(一六〇六)から高四〇一俵余が土方領。うち約五割七分は百姓得分。領主の変遷は谷内やち村に同じで、天明六年(一七八六)一村幕府領(加賀藩預地)となり、幕末まで推移。土方領分は正保郷帳によれば二〇〇石余、田方八町九反余・畑方四町四反余、免四ツ八歩。貞享四年(一六八七)の家数二七(うち役家一五)・人数一二九、馬三七(加賀藩史料)

外村
とのむら

[現在地名]愛東町外

小倉おぐら村の南東明神みようじん山・東光寺とうこうじ山の南西麓、愛知川右岸の氾濫原に位置する。中世には小椋おぐら庄の一部であったと推定される。明応二年(一四九三)九月一七日の山上含空院領所々散在田敷之事(永源寺文書)に「四段半 殿村郷分」とみえる。天正(一五七三―九二)末から慶長五年(一六〇〇)にかけては豊臣氏の支配下で、天正一一年八月一日の羽柴秀吉知行宛行状(小倉文書)に「小椋岸本之内以百石殿村」とみえ、織田信長の側室小倉鍋に殿村のうち一〇〇石が宛行われ、同一二年一一月一〇日の羽柴秀吉宛行状(同文書)に「との村あを山の内にて」とあり、同人に四〇〇石が宛行われた。

外村
とのむら

[現在地名]弥栄町字溝谷みぞたに

溝谷川の流域に位置し、網野あみの宮津街道が集落を貫通する。東に金剛童子こんごうどうじ山、南に小原おばら山の迫る谷間集落で、耕地は少ない。

慶長検地郷村帳にはみえないが、延宝三年郷村帳には溝谷村の次に、高四一一・九石「同外村分」とあるので、慶長検地帳の段階では溝谷村に含まれていたのであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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