大伴室屋(読み)おおとものむろや

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大伴室屋」の意味・わかりやすい解説

大伴室屋
おおとものむろや
(生没年未詳)

5世紀中葉から末期にかけての大和政権の有力者。武以(たけもち)(健持)の子。談(かたり)(語)や御物(おもの)の父。ただし『古屋家家譜(ふるやけかふ)』では金村(かなむら)、御物、若古(わくこ)の父で、談は弟とされる。『日本書紀』によれば、允恭天皇(いんぎょうてんのう)11年に衣通郎姫(そとおしのいらつめ)のために藤原部(ふじわらべ)を定めたとあるのが初見。雄略天皇の即位時に大連(おおむらじ)となり、以後武烈天皇まで5代にわたり大連を歴任雄略遺詔により、その死後に生じた星川皇子反乱鎮定した。そのほか執政者としてさまざまの活動を行ったことが『日本書紀』にみえる。室屋は大伴氏台頭期の実在人物で、王権に直属し、物部氏(もののべうじ)とともにこれを軍事的に支えた武将・政治家とみられる。大伴氏のほか佐伯(さえきのむらじ)(宿禰(すくね))・佐伯直(あたい)らの祖と伝えられる。

[加藤謙吉]

『加藤謙吉著「大夫制と大夫選任氏族」(『大和政権と古代氏族』所収・1991・吉川弘文館)』

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改訂新版 世界大百科事典 「大伴室屋」の意味・わかりやすい解説

大伴室屋 (おおとものむろや)

5世紀後半の廷臣生没年不詳。道臣命みちのおみのみこと)7世の孫,健持の子と伝える。《日本書紀》では允恭朝から名が見え,雄略~武烈5代の朝廷に大連として仕えたという。811年(弘仁2)の官符に引く大伴真木麻呂らの解には,室屋が靫負(ゆげい)3000人を領して左右分衛したとある。大伴氏の祖先伝承上重要な存在で,大伴氏発展の基礎を固めた実在の人物である可能性が強い。
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朝日日本歴史人物事典 「大伴室屋」の解説

大伴室屋

生年:生没年不詳
5世紀後半の有力廷臣。武以(健持)の子で,談,御物の父。『令集解』職員令左衛士府条に引用される弘仁2(811)年11月28日付太政官符に大伴氏が靭負3000人を領して左右分衛したとあり,また『新撰姓氏録』左京神別大伴宿禰条に雄略朝に談と宮門の左右を守ると記されているように,軍事氏族としての大伴氏の始祖的な存在であり,佐伯氏の祖でもある。『日本書紀』によれば,允恭11年衣通郎姫のために藤原部を定め,雄略朝には最高執政官のひとつ大連となり,東漢直掬に命じて今来才伎の陶部,鞍部らを安置した。また掬と共に雄略天皇の遺詔を奉じて白髪皇子(のちの清寧天皇)を擁立し,星川皇子の反乱を鎮定したという。雄略の遺詔に,室屋の民部は広大にして国に盈つとある。

(佐藤長門)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大伴室屋」の解説

大伴室屋 おおともの-むろや

?-? 5世紀後半の豪族。
大伴談(かたり)の父。允恭(いんぎょう)天皇11年妃の衣通郎姫(そとおりのいらつめ)のために藤原部をさだめた。雄略天皇が即位すると大連(おおむらじ)となり,百済(くだら)(朝鮮)からの技術者集団の移住に尽力した。雄略天皇の死後も星川皇子の反乱をおさえるなど,武烈天皇までの5代に大連としてつかえたといわれる。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の大伴室屋の言及

【大伴氏】より

…日本古代の中央有力豪族。姓は連(むらじ)で,684年(天武13)以後宿禰(すくね)となった。伴(とも)は朝廷の各種の職務を世襲的に奉仕する集団で,大伴とは,伴の大いなる者,あるいは多くの伴を支配する伴造(とものみやつこ)の意であろう。記紀の伝承では,天孫降臨のおり,遠祖天忍日命(あめのおしひのみこと)が武装して先導し,神武東征のおりにも,遠祖日臣命(道臣命)が大和への道を先導したという。おそらく4~5世紀の大和政権の発展期に,朝廷の諸機能にたずさわる伴の管理者として成長し,ことに軍事的統率者として頭角を現したものと思われる。…

※「大伴室屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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