大嘗祭(だいじょうさい)(読み)だいじょうさい

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

大嘗祭(だいじょうさい)
だいじょうさい

天皇即位ののち初めて新穀を天照大神(あまてらすおおみかみ)をはじめ天神地祇(てんじんちぎ)に奉り、自らも食す祭りのことで、天皇一世一度の最大の祭り。「おおにえのまつり」「おおむべのまつり」ともよび、践祚(せんそ)大嘗祭ともいう。毎年11月その年の新穀を神に捧(ささ)げ、自らも食す新嘗(にいなめ)祭のことを、古く毎年の大嘗と称したのに対し、毎世の大嘗といった。この祭りを斎行することで、新しい天皇が真の天皇となると信仰されてきた。律令(りつりょう)の整備とともに、その次第等について詳細に規定されたが、延喜(えんぎ)の制で大祀(たいし)とされたのはこの祭りのみである。

 その延喜式を中心としてみるに、天皇の即位がその年7月以前の場合はその年に、8月以後の場合は翌年に行われることとなっており、その年に所司にまずその祭りに供する稲を出す悠紀(ゆき)・主基(すき)の国郡(こくぐん)を卜定(ぼくじょう)させる。古くは広くこの国郡を卜定したが、中世以降近江(おうみ)国が悠紀、丹波(たんば)・備中(びっちゅう)国が交互に主基とされ、郡をその国内で卜定してきた。そのあと8月上旬に大祓使(おおはらえし)を卜定し、左右京に1人、五畿内(ごきない)1人、七道に各1人を差し遣わし、下旬にさらに祓使を遣わして祓った。それが終わって、伊勢(いせ)の神宮以下諸国の天神地祇に幣帛(へいはく)を供し、そのことを告げ、10月下旬に天皇は川に臨み御禊(ぎょけい)したが、平安中期以降それは賀茂(かも)川に一定、江戸中期以降宮城内となっていた。11月となり、その1日より晦日(みそか)まで散斎(あらいみ)とされ、その祭儀の行われる卯日(うのひ)の前丑(うし)日より3日間は致斎(まいみ)とされ、穢(けが)れに触れることを戒めた。一方で8月下旬に抜穂使(ぬきほし)を卜定し斎国(いつきのくに)に遣わし、使はその国に至って斎田(さいでん)、斎場雑色人(ぞうしきにん)らを卜定し、9月になり稲穂を抜き取り、その初めに抜いた四束を御飯(みい)として、あとを黒酒(くろき)・白酒(しろき)として供することとし、9月下旬斎場院外の仮屋に収めた。また悠紀・主基の斎場を設けたが、そこに神供(しんく)、神酒、調度などを調理製作する諸屋を設備した。そして、祭りの7日前より大嘗宮をつくり始めるが、悠紀殿・主基殿の二殿からなり、5日以内につくり終える。祭り当夜、天皇は廻立殿(かいりゅうでん)に渡御、小忌御湯(おみのおゆ)で潔斎、斎服をつけ、悠紀殿に入り神饌(しんせん)を神に供し、告文(こうもん)を奏し、次に神と直会(なおらい)をされる。あと廻立殿に帰り、ついで主基殿に入り悠紀殿と同じ次第のことをされる。あと辰(たつ)日に中臣(なかとみ)氏が天神寿詞(あまつかみのよごと)を奏する行事、巳(み)日に和舞(やまとまい)・風俗舞などがなされ、午(うま)日に五節(ごせち)舞などがなされた。それ以後多少の変化を加えられ、また戦国時代に延引または行われなかったこともあるが、天皇皇位に関する重要祭儀として継承されてきた。

[鎌田純一]

『荷田在満著『大嘗会便蒙』『大嘗会儀式具釈』(1740)』『田中初夫著『践祚大嘗祭の研究』(1983・木耳社)』

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