大垣城下(読み)おおがきじようか

日本歴史地名大系 「大垣城下」の解説

大垣城下
おおがきじようか

天文年間(一五三二―五五)頃に築城されたという大垣城には、慶長六年(一六〇一)石川康通が大垣藩五万石に封ぜられ、その後の数回の転封を経て、寛永一二年(一六三五)戸田氏鉄が大垣藩一〇万石の藩主となった。以後、戸田氏によって領された大垣藩の城下町。正保城下絵図(内閣文庫蔵)によると、城を中心に士屋敷地域が広がり、美濃路に沿った北東部・東部・南部・南西部の町家地域は、ほぼ大垣宿と一致する。戸田氏時代の城下の士屋敷は身分によって居住地域が分けられ、城主・一門・家老・組頭などの重臣は郭内、一〇〇―三〇〇石取は西の本馬場ほんばば八幡曲輪はちまんくるわ、五〇―一〇〇石取は東の東長ひがしなが町・清水しみず町、北のきりさき町、西の西長にしなが町・新馬場しんばば、五〇石取以下は東の栗屋くりや町・高橋たかはし町・歩行おかち町、足軽は高橋町、南の町、西のむろ町・切石きりいし町に居住した。往還町として、南西から北東にかけてふな町・たわら町・竹島たけじま町・ほん町・伝馬てんま町・岐阜町が、脇町として東のなか町・魚屋うおや町・しん町、北西のみや町がある。俵町・竹島町・本町・中町・魚屋町は総堀の中に組込まれ、他はその外にある。士屋敷のほかに寺院も多く、有事の際は駐屯所を兼ねることになっていた。なお、明治維新時に神仏分離令が出された際に大垣藩では、形式的に名主や総代が「仏像、仏具等無シ」と届出るだけで神仏分離の改めをすませたという。

〔城下町の発展〕

近世前期の当城下においては、関ヶ原の合戦以前から存在した本町・中町・魚屋町・竹島町・俵町・伝馬町古来町、元和二年(一六一六)藩主となった松平忠良の時代以後に発達した船町・伝馬北町(岐阜町)・新町・宮町を出来町と称し、ほかに城下よりやや離れた不破郡青柳あおやぎ村に青柳町があった。築城当初の大垣城は本丸と二の丸をもつ小城で、城下町も本町・中町・魚屋町などであったという。城主氏家直元の時代の永禄六年(一五六三)から同七年にかけて松の丸を城郭内に取入れ城の規模を拡大。当時松の丸は伊勢いせ町とよばれ、家臣の沼波玄古や松井喜右衛門などの居住地であったが、このとき沼波氏は南大手先(竹島)へ、松井氏は東大手先(本町)へそれぞれ替地を与えられ移住し、その警固役に任ぜられた(藤渠漫筆)。天正年間(一五七三―九二)頃になると、竹島・伝馬町付近も城下町となり、慶長一八年には藩主石川忠総が八幡郭の総堀(水門川)や竹島町南総堀・高橋筋を開いた(「美濃明細記」など)。その後、元和六年に船町が成立、寛永三年には伝馬町東部が町家化され、戸田氏鉄が入部して以後、同一四年に伝馬北町、同一九年に新町、承応三年(一六五四)に宮町が成立したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大垣城下の言及

【大垣[市]】より

…西部の青野町には美濃国分寺跡(史)があり,本尊であった薬師如来像は重要文化財に指定されている。【高橋 百之】
[大垣城下]
 美濃国安八郡の城下町。中世には大井荘のうちにあり,大柿とも記す。…

※「大垣城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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